第21回大佛次郎論壇賞 『人びとのなかの冷戦世界 想像が現実となるとき』 益田肇さん

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 第21回大佛(おさらぎ)次郎論壇賞(朝日新聞社主催)は、シンガポール国立大学准教授の益田肇(はじむ)さん(46)の『人びとのなかの冷戦世界 想像が現実となるとき』(岩波書店)に決まった。無名の人々の日常の営みと想像の連鎖が「冷戦」という新たな現実を生み出した過程を分析し、第2次世界大戦後の歴史に新たな光を当てた。来年1月28日、東京都内で朝日賞大佛次郎賞、朝日スポーツ賞とともに贈呈式がある。

 ■小さな行為の連鎖が生んだ枠組み

 冷戦とは何だったのか。現代史研究における大きな問いに取り組んだ。大国間のせめぎ合いや政治指導者の駆け引きの物語ではなく、膨大な資料から草の根の人々の実感を積み重ねることで、冷戦初期の歴史を描き直した意欲作だ。

 外交史に社会史を重ね合わせて見えてきた新たな歴史像は説得力がある。第2次世界大戦後の社会変動のただ中にいた欧米や東アジアの人々は、1950年の朝鮮戦争勃発に第3次世界大戦への不安を募らせ、そこから生まれる小さな行為の連鎖が「冷戦」という想像上の「現実」を作り出していった、というのだ。

 2段組みで300ページを超える厚さだが読みやすい。ハワイの農園で働く労働者は終戦直後、なぜデモに身を投じたのか。朝鮮戦争が始まった数日間、ソウルの大学教員は何を見聞きしたのか。日記などから当時の人々の息づかいと時代の空気をすくい取り、ローカルな動きをグローバルな構図に織り上げた。

 歴史を形づくる主役としての無名の人々に関心を寄せるようになったのは学生時代から。沢木耕太郎著『テロルの決算』や辺見庸著『もの食う人びと』、吉見義明著『草の根のファシズム』を読み、シリアヨルダンイスラエルモンゴルを自転車で旅した。「95年に帰国した直後にイスラエルのラビン首相が暗殺された。現地では互いに憎しみ合う大衆感情を目の当たりにした。政治家が和平に向けて握手しても容易に問題は解決しないと感じた」

 新聞社に就職し、青森で修業した。「六ケ所村の原子力関連施設や三沢基地の問題を理解するにはその歴史的背景を知る必要があった」。石川文洋さんや藤原新也さんのような「文章が書ける写真家を志して」退社し、英語と写真、歴史を学ぼうと渡米した。コーネル大学大学院でベトナム戦争や朝鮮戦争の研究者に接し、「複数の視点を行き来して書く面白さがある」と歴史学の道に進んだ。

 受賞作は2015年に米国で出版した英語版(ハーバード大学出版)を日本語に「翻訳」する過程で大幅に加筆、修正を施したものだ。冷戦史のとらえ直しは手探りの結果だという。「当初の関心はワシントンや北京の政策立案過程。ただ、政治の動きを追ううちに、当時の社会で何が起きていたのかが気になった」。各国の資料館を訪ねては膨大な量のデータを集め、そこから本で扱う資料を絞り込んでいった。

 今回の視点をさらに広げ、アジア諸国の研究者数十人と協力してオーラルヒストリー(口述記録)の大型プロジェクトを進めている。受賞作では、米国で吹き荒れたマッカーシズム(赤狩り)の背後の人種差別や性差をめぐる対立に注目し「社会戦争」という概念を生み出したが、次回作では1920年代から50年代にかけての日本の「社会戦争」に取り組む。「その次はさらに100年、250年と日本近代をさかのぼってみたい」。目標は大佛次郎『天皇の世紀』だ。(大内悟史)

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 ますだ・はじむ 1975年、大阪府生まれ。専門は東アジア近現代史、アメリカ外交史、グローバルな視野を持つ社会史。立命館大学卒業後、新聞社勤務を経て渡米。コーネル大学大学院で博士号(歴史学)取得。主な論文に「京都大学同学会 戦後史における原爆展のもう一つの意味」。受賞作は第75回毎日出版文化賞(人文・社会部門)も受賞。

 【選考委員5氏の講評】

 ■分野「横断型」圧倒的な学問的貢献 苅谷剛彦・英オックスフォード大教授(社会学)

 圧倒的な学問的貢献である。「冷戦世界」をテーマに、英語、中国語、日本語を跨(また)ぐ豊富な資料を駆使し、自明視されてきた「冷戦」という私たちの世界の捉え方が、虚構でありながら現実となっていく様を見事にえぐり出した。歴史研究だが、その手法は極めて社会学であり、「社会戦争」という分析概念も斬新かつ有効だ。特定の専門性にこだわらない、政治史、国際関係史、社会史、グローバルヒストリーを串刺しにした「横断型」研究の成果は、それぞれの専門研究の最前線と対話しながら、それらを乗り越える視座を提示する。今後も、日本を超えた学問共同体に大きな影響を与え続けるだろう。このような研究者が日本から登場したことを心から言祝(ことほ)ぎたい。

 ■国際的論壇に一石、視座の転換促す 酒井啓子千葉大教授(国際政治学)

 社会科学、特に政治系で日本人の研究者が国際的な論壇に一石を投じる業績には、滅多にお目にかかれない。本作は紛れもなくその一つだ。冷戦とは、超大国間の対立で世界の多くの国はそれに巻き込まれたもの――そうした通説に反し、「人々がそれを存在するとみなしたがゆえに存在する」想像上の「現実」だと主張する。市井の人々は世界の大きな構造に踊らされる存在ではなく、彼らの個別の社会不安やさまざまな誤認こそが世界情勢の枠組みを構築するとの視点は、現代の諸紛争にも当てはまる。「すべての出来事は誰かの意図から始まっているに違いない」という国際政治の常識を覆し、社会科学全般の広範な分野に視座の大転換を促す、画期的で見事な大作だ。

 ■手紙など資料駆使、通説覆す説得力 大竹文雄・大阪大特任教授(経済学)

 1991年のソ連崩壊まで、世界は冷戦状態にあった。しかし、冷戦の始まりは実態が先にあったのではなく、人々の想像上の産物だった。これが本書の主張だ。疑念をもって読み始めたが、提示される圧倒的事実で説得された。国際政治が先にあって発生したものではなく、各国の国内事情で、革新的運動と保守派の対立構造が先にあり、それを政治家が反共ということで利用していった。朝鮮戦争が始まった1950年前後の短い期間に様々なことが起こって、想像上の産物である冷戦に関連付けられ、それが冷戦という実態となっていく。この過程を一般の人の手紙や新聞記事をもとに説得的に示す。政治家を中心にした国際関係論とは異なる手法で通説を覆した。

 ■「権力は下から」フーコーに通じる 杉田敦・法政大教授(政治学)

 フランスの哲学者ミシェル・フーコーは「権力は下から来る」とした。国家が上から一方的に権力をふるうという従来の発想と異なり、ローカルな現場で立ち上がる実践が積み重なって、権力の大きな動きができると指摘したのである。冷戦は世界各地において、一般の人々の頭の中でまず生まれたという本書のメッセージは、こうした権力観にも通じるものがある。それぞれの場で不満を抱える人々が、社会の「異分子」を排除して溜飲(りゅういん)を下げようとしたことの帰結という、国家中心の冷戦観を根底から覆す著者の叙述には圧倒的な説得力がある。大冊を一気に読み進めながら、現代のポピュリズム現象との不気味なまでの類似性を、常に意識せざるを得なかった。

 ■ずぬけた筆力、効果的なエピソード 根本清樹・本社論説主幹

 中身も見た目も重厚な学術書なのに、手だれのノンフィクション作品のような読後感を持った。筆力がずぬけている。

 ソウル郊外で畑仕事をする大学助教授、米コネティカット州の高校生が大統領に出した手紙。小さなエピソードから各章を書き出す手法が効果的だ。取っつきやすい。

 著者が注目するのはトルーマンやスターリンや毛沢東だけではない。むしろ、名もなき草の根の人々や、「世界の片隅で日々起きる些々(ささ)たる出来事」に分け入る。米民主党政権は国内世論に「追いつく」必要があったし、中国共産党は革命の大義を突き崩しかねない大衆感情を恐れたのだ。

 大変な力業は結語も挑発的である。「私たち自身も、いわば権力者なのだから」

 <これまでの受賞作>

 (1)大野健一『途上国グローバリゼーション

  ◆奨励賞 苅谷剛彦『階層化日本と教育危機』

       小林慶一郎・加藤創太『日本経済の罠(わな)』

  ◆特別賞 ジョン・ダワー『敗北を抱きしめて』

 (2)池内恵『現代アラブの社会思想』

 (3)篠田英朗『平和構築と法の支配』

    小熊英二『〈民主〉と〈愛国〉』

 (4)ケネス・ルオフ『国民の天皇』

    瀧井一博『文明史のなかの明治憲法

 (5)中島岳志中村屋のボース』

 (6)岩下明裕『北方領土問題』

  ◆奨励賞 本田由紀『多元化する「能力」と日本社会』

 (7)朴裕河(パク・ユハ)『和解のために』

 (8)湯浅誠『反貧困』

 (9)広井良典『コミュニティを問いなおす』

(10)竹中治堅『参議院とは何か』

(11)服部龍二日中国交正常化

(12)大島堅一『原発のコスト』

(13)今野晴貴ブラック企業

(14)遠藤典子『原子力損害賠償制度の研究』

(15)井手英策『経済の時代の終焉(しゅうえん)』

(16)森千香子『排除と抵抗の郊外』

(17)砂原庸介『分裂と統合の日本政治』

(18)小松理虔『新復興論』

(19)東畑開人『居るのはつらいよ』

(20)鈴木彩加『女性たちの保守運動』

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