ガザめぐる対話 いま何ができるのか 「難しいよね」で終わらせない

有料記事Re:Ron発

司会と構成 Re:Ron編集長・佐藤美鈴

保井啓志×竹田ダニエル×富永京子

 イスラエルによるパレスチナ自治区ガザ地区への攻撃をめぐって、さまざまな形で抗議の声が上がっている。依然として厳しい状況が続くなか、いま何ができるのか。抵抗すること、声を上げること、発信することの課題と可能性とは。

 イスラエル・パレスチナ地域を対象にジェンダー・セクシュアリティーを研究する同志社大学都市共生研究センター研究員の保井啓志さん、米カリフォルニア大の大学院生で日米のデモを取材するライターの竹田ダニエルさん、社会運動に詳しい社会学者で立命館大学准教授の富永京子さんに、語り合ってもらった。

「ガザへの注目が続くかどうか」「ライフスタイルの政治化と燃え尽き」「誰にとっての危機なのか」「AI画像めぐる議論」といったテーマが続きます。多角的な視点から考えます。

 ――ガザ攻撃をめぐっては様々な形で抗議の動きがありますが、社会的に注目された一つとして、イスラエルや米政権に対するアメリカの大学での抗議活動があり、世界的な広がりを見せました。

 【竹田】私はカリフォルニア大学バークリー校の大学院の学生ですが、学生たちによるキャンプ抗議が結構長く続きました。夏休みに入ってからは、大学とある程度の合意が得られたため撤収はしたのですが、その後もいくつかのグループがまた別のところを占拠したりするといったことが続きました。アメリカ全体としては、学生が「平和的」と言えるような運動をしているのに、大学が要請した警察による暴力的な行為が目立って、警察システムの問題を浮き彫りにしました。

 日本では、「反イスラエルの学生たちが暴力的にエスカレート」みたいな報道をするメディアもあったので、現地では違うムードになっている、ということは伝えようとしてきました。

 【富永】私はこの議論に対して懐疑的というか、この鼎談(ていだん)の座組みから言って、すごくアメリカ中心主義的なものを感じてしまうんですけど、なぜアメリカにフォーカスしなきゃいけないのか。もちろんイスラエルの影響が強い社会だというのはあるでしょうが、イスラエルに対する抗議行動をこうして日本のメディアで論じるにあたって、アメリカの抗議行動を経由して論じなければならないというのは、市民社会のレベルにおいてもアメリカ中心主義をただ繰り返しているだけだと思う。

 ――もちろん以前から、大学でも他の場所でも抗議活動など色々な動きがあると思います。一方で、イスラエルの影響が強いアメリカで、声を上げるのが難しい社会状況や政治状況の中で多くの学生が抗議している、というのは一つのきっかけとして大きかったのではないかと思います。

 【竹田】日本の一部の報道機関も、若者を支援したい、日本の若者たちに声を与えたい、といった発想でアメリカの若者の抗議運動を取り上げがちです。若者文化や「Z世代」という言葉とともに、たとえば(環境活動家の)グレタ・トゥンベリとか、(歌手の)ビリー・アイリッシュのようなポップカルチャーといった表面的に分かりやすい若者像を前に立てたり、2020年の大統領選でトランプを降ろすために若者がTikTokで色んなアクションを起こしたり、みたいな。

 ただ今回、キャンプをやっている人はすごくリスクを負ってやっている。ウクライナ侵攻の時にロシアに対しては批判的な声明文を出していた大学が、イスラエルによるパレスチナ攻撃では「パ」の字も言わないとか、実際に起きているムスリム系の学生への差別や暴力には触れないとか。まるで抗議運動がないかのように隠そうとしたり、迷惑や問題行為として扱われたりしてしまうんです。保守的な地域にあるわけでもない、リベラルだと思われている大学でも、意外とそういう雰囲気がある。普段は環境問題やその他の人権問題に関しては「どんどんプロテスト(抗議)してくれ、それが大学の誇りだ」くらいのスタンスを取るのに、パレスチナに関しては全く態度が違います。

 【富永】日本でも、大学内の生活空間にプロテストキャンプができるなど多様な運動が見られている。人々が社会の何かに疑問を持って主張をする手法は多いほうがいいから、そういった変革は個人的には好ましいものだと思っていますけれども、ただ、社会運動の外形として見た時に、「新しい」という言説を繰り返すことの問題性もまた重要だと思うんです。それをやればやるほど、いわゆるガザの問題、イスラエルの問題から離れてしまうんじゃないかっていう感覚はすごくあります。

ガザへの注目 一過性でなく続くかどうか

 【保井】お話を聞いていて、イスラエルとかガザ地区に対する注目っていうのが一過性のものじゃなく続くかどうかというのが、一研究者としては気になっています。かつてないほどまでにイスラエルによるパレスチナに対する暴力に対して、日本の人たちの関心が高まっていると感じる。

 一方で、やはりパレスチナ側も、国際的な世論に対して不満を持っていて、「どうしてもっと見てくれなかったのか」っていう思いがある。たとえば、ガザにすごく注目が集まっていることを「オール・アイズ・オン・ガザ」というふうに言います。けれども、ガザだけではなくて、ヨルダン川西岸地区でも入植者の暴力であったり、土地の収奪、恣意(しい)的な警察暴力だったりというのが非常に増えているわけです。それに対する注目は十分あったのだろうか、と。

 ひるがえって、イスラエル側に関しても、きちんと見てくれるのかという不安がずっとある。形は全然違うけれども、たとえばホロコーストが起きたときに誰も助けてくれなかったじゃないか、自分たちのことは自分たちでしか守れないんだ、という形での国際世論に対する不信とそこから来るかたくなさが垣間見えます。国際世論に対して「きちんと私たちを理解してくれるのか」という問いが突きつけられている。

 この注目が続くのか、一過性なのかは考えなきゃいけないと思います。

 【竹田】それは、取材したキャンプ運動をやっていた学生たちも言っていて。

 「若者運動」として一過性のものとして消費されがちなので、一時的にはメディアが殺到する。運動している人たちは、大学に通っている、もしくは大学で働いている者として、自分の仕事や自分の研究や自分の学費がその加担につながるのは絶対に嫌だという理由で抗議している。

 自分たちの運動なんて正直どうでもよくて、本来は、やっぱりパレスチナの人たちの言葉や発信に注目してほしい。自分たちがこの議論の中心になっては絶対にいけない、ということを取材でも何度も繰り返し主張していることがすごく印象的でした。

 【富永】ベトナム反戦運動や公民権運動でも、「問題」じゃなくて「運動」のほうがフォーカスされる側面はある。それはトッド・ギトリンをはじめとして多くのメディア研究者が議論しています。

 日本だと安保法制への抗議行動などが近くて、安保法制そのものより、どちらかというとそれに抗議する若者たちにフォーカスが当たってしまった。でも、必ずしもそうでない運動もある。運動がフォーカスされる時と、問題がフォーカスされる時って何が違うんだろう、というのが気になります。

 竹田さんがおっしゃった通り、担い手が若年層だと、たとえば気候変動よりグレタ・トゥンベリさんがフォーカスされるという形になるのはすごく分かる現象だと思うんですけども。若者が中心の運動だと運動の「器」のほうに目がいってしまうのってなんででしょう。

 【竹田】アメリカの場合は、イスラエル・パレスチナ問題自体に言及したくない、もしくはできないから、学生運動のことで議論するっていう、ある意味で「器」だと思います。大学でもパレスチナ・イスラエルに関しては言及しづらいし、メディアとしても、学生運動の是非みたいな議論にしたほうが、政治的に薄まるような感じはあるかもしれません。

「難しいよね」が持つ政治性 その先へ

 【保井】イスラエルとかパレスチナについて、日本だと関心がそもそもすごく薄かったという土壌がある。

 アメリカやヨーロッパだと運動が「反イスラエル」とか「反ユダヤ主義」のレッテルをすぐに貼られるわけです。元々の主張はそうではなかったはずなのに「差別者」としてのレッテルを貼られる事態が起きている、というのは言論の空間としては異常な状況。それが日本ではまだほとんど起きていない。それはある種、土壌がまだ培われていない日本での新しい出来事なのかなというふうに個人的には見ています。

 ただ、知らないからこそ、両…

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この記事を書いた人
佐藤美鈴
デジタル企画報道部|Re:Ron編集長
専門・関心分野
映画、文化、メディア、ジェンダー、テクノロジー
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