戦国武将・大谷吉継の「自筆サイン」と専門家 個人保管の書状に
豊臣秀吉の側近の一人で、関ケ原の戦いに散った戦国武将、大谷吉継に関する新たな史料が専門家によって確認された。秀吉の家臣へ宛てたとみられる書状で、末尾には自筆の花押(かおう)があった。
専門家は「偽物も出回っているが、これは自筆で間違いはなく貴重だ」としている。
今回見つかった書状は、大和の国での普請に関する内容で、「先日、大和国へ(私吉継が)立ち寄った際にいろいろとご親切の(中略)何事もお目にかかって申し上げますので詳しくは述べません。(中略)御普請でお忙しいところに丁寧なお手紙をいただき恐縮に思います」などとつづられている。
確認した大手前大学(兵庫県西宮市)の石畑匡基(こくはたまさき)講師(日本中世史)によると、書状は本人ではなく祐筆(ゆうひつ)が書いたとみられる発給文書だが、「八月六日吉継」の下にある花押が吉継の自筆という。
これまでに確認されている吉継の書状は100通余りで「とても価値がある」と話す。
書状に年号を示すものはないが、吉継の官職を示す「刑少」の文字がある。刑部少輔(ぎょうぶしょうゆう)の意味で、吉継がこれを称するのは天正13(1585)年7月から。そのため「それ以降に発給されたのは確か」と石畑講師は説明する。
また文中の「御普請」は、天正17(1589)年に現在の奈良県大和郡山市の郡山城であった大規模な改修のことを指すと思われるため、書状が出されたのは天正17年と推測している。
さらに石畑講師は「吉継の花押は年代によって少しずつ変化しているが、この時期のものと合致している」と指摘する。
宛先は「池与左」と読み取れ…