人生の厳しさ教えてくれた先生に感謝 「あめとむち」で今の幸せある

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ウインズ平阪のためにならない?話

 近年はマイナスイメージが強くなってしまいましたが、人を育てる過程において、褒めたり叱ったりしながら、しつけをする「あめとむち」という言葉があります。

 まだ将来を自分で考えることのできなかった少年時代に、先生や先輩、恩師などが、バランスのとれた「あめとむち」を使って下さったお陰で、私の今の幸せがあると感じています。

 しかし近年、「褒めて育てる」の言葉通りに、褒めることばかりが肯定され、短所を指摘したり、厳しく叱ったりすることを、時にパワハラなどと、否定的に捉えてしまう風潮がありませんか?

 指摘されずとも、自身の問題点に気付き、修正できる能力がある人ばかりならいいのですが、私のように、そんな能力のない人間の多くは、自身の弱点に気づく機会をなくし、能力の格差が広がるばかりでは?と心配でなりません。

 例えば、震災など、災害の語り部の皆さんの目的の一つは、「ひとごとではなく、自身にも起こりうる」と危機感を持ってもらうことです。しかし、視点を変えれば、それは「自分には起こらない」と楽観的な人に、わざわざ将来自身にも起こりうる危機を認知させ、不安にさせてしまうことにもなりませんか?

 それを肯定するか、否定するかは、それぞれの感覚だと思いますが、私は、たとえ相手が嫌な気持ちになろうと、自身が嫌われようと、大切な周りの皆さんには、できるだけ後悔してほしくないことから、語り部の皆さんのように、可能性のある危険や危機を伝える人間でありたいと思っています。

 もちろん感情的になり、自身のストレスをぶつけたり、相手を萎縮させたりする言動は慎むべきでしょうが、私のように出来の悪い生徒のために、放課後の時間を使ってまで、人生の厳しさを教えてくれた先生方の努力を、「時代が違う」の一言で否定する世間の風潮を、どうしてもすんなり受け入れることができません。

 相手の捉え方次第で、なんでもハラスメントになりかねない昨今、私の周りでも、ビクビクしながら会話し、本音を言えない人が増えています。

 このままでは、人間関係がますます希薄になり、「地域の皆さんとともに子育てする」「裏表のない人間関係の構築」などの理想は、絵に描いたモチにならないか?と危惧するのは、私だけでしょうか?

(ミュージシャン)

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