「これでよかったのか」 己の至らなさの自覚から開く、対話の可能性

有料記事福島季評

福島季評 安東量子さん

 半年前の本欄掲載後に、一通の手紙が届いた。白地の紙に、いまどき珍しい鉛筆書きのメッセージ。差出人は、その時に書いた成田空港建設をめぐる闘争の当事者のお一人だった。「30年近い時を経て、成田空港問題の話し合いによる解決がこのような形で取り上げられることがあるとは夢にも思いませんでした」。手紙は「成田空港 空と大地の歴史館」への来訪を勧めて、結ばれた。

 60年代、新空港の建設予定地の決定直後から始まった激しい反対運動は、開港を挟み、四半世紀もの間続いたが、90年代、和解のための対話の場が設けられたことによって、雪解けを迎えた。私はこの修復のプロセスの経験から、「対立は乗り越えうる」と書いた。だが、なぜ、対立した双方が対話のテーブルにつく気になったのか、それだけはわからないままだった。

 社会の分断が大きな問題となっている昨今、「対話」が重要であるとよく指摘される。確かに、それはそのとおりだ。対立する問題があった時に、言葉による調停ができなければ、残るは、暴力か圧制くらいしか選択肢はない。それなら対話の方がマシに決まっている。ところが、対話には非常に大きな、そして、決定的な欠点がある。それは、対話する気になった人としか対話できない、という自明、かつ、厳然たる制約があることだ。その上、非常に頻繁に、少なからぬ利害関係の当事者は対話をしたがらない。

 対話で最も難しいのは、関係…

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