第17回自衛隊活動の限界探った宮沢元首相 岸田首相との違いは憲法への敬意
宮沢喜一元首相は冷戦後の混沌(こんとん)とした世界に対処すべく、憲法を重んじつつ自衛隊の活動の限界を探った。宮沢が残した政治行動記録(日録)を手がかりに今の課題とのつながりを掘り下げる。(敬称略)(編集委員・藤田直央)
冷戦終結後、72歳で首相となった宮沢が国際秩序構築への貢献として打ち出したのは、国連平和維持活動(PKO)への初の自衛隊派遣だった。
その方針を揺るがした大事件に関する記述が、1993年5月4日の日録にある。「22:02 ホテル発」。「Cambodiaで文民警察官死亡により」と走り書きが添えられていた。
当時カンボジアは内戦を乗り越えて国づくりをしようとしており、その選挙を支えようと国連の暫定統治機構(UNTAC)がPKOを展開。日本が和平交渉に関わってきたこの国に宮沢内閣は自衛隊や警察官を送っていた。
その警察官らが武装集団に襲われ死者が出た。連休を長野・軽井沢で過ごす宮沢に連絡が入る。車で「22:02 ホテル発」、翌日「00:18 官邸入り」、「00:21~01:25」に官房長官の河野洋平や外務事務次官の小和田恒(おわだひさし)らと協議、とある。
焦点は、憲法との関係で海外での武力紛争に巻き込まれないようにという条件で派遣した自衛隊を撤収させるかどうかだった。
今年2月、河野に当時のこと…
- 【提案】
書きました。戦後の新憲法施行から77年となる5月3日、カンボジアPKOへ文民警察官として派遣された高田晴行警部補(当時33)の殉職から31年となる5月4日を前に、ご一読をいただければ幸いです。
…続きを読む