城下町のかつての目抜き通り 商店街の衰退でマンション街に

杉村和将
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 【岩手】「ここは金物屋、ここは瀬戸物屋、ここには古風な日本旅館がありました」

 盛岡市の本町通でカメラ店を経営する松本静毅さん(71)が、住宅地図を指さしながら説明する。

 本町通は盛岡藩の城下町だった時代、「京町」と呼ばれた。1800年代に「本丁」と名前を変えるが、城の大手先御門に近い最重要の地に置かれた「本(もと)」となる町、というのが由来と伝わる。

 「奥州街道が通る城下の目抜き通りで、お城に物を納める御用商人や職人の町として栄えました。八百屋でも一般庶民のためではなく、お城に納入する八百屋があったそうです。うちの先祖は刀研ぎ師でした」

 明治になると多くが商売替えをしたが、大正、昭和へと時代が移っても多くの店が軒を並べ、商店街として繁栄した。

 「ここに来れば衣食住何でもそろう商店街でした」

 だが1980年代に入ると、街が変わり始めた。

 日常の買い物がスーパーマーケット中心になり、郊外に大型店もできると、商店街の店は一軒、また一軒と閉店していった。

 このとき、本町通が江戸時代から繁栄した中心的な街だったことが、逆に変化を加速させることになる。

 「広い敷地を持つ大店が多く、その店が廃業すると、そこには個人では容易に手が出せない広い土地が残りました」

 活用の道が限られる中、動いたのはマンション業者だった。

 80年代半ばから90年代、本町通には10階以上のマンションが相次いで建った。

 「それは商店街の衰退の裏返しでもありました。景観が変わり、商店主の中には、マンションを目の敵にする人も現れました」

 向こう三軒両隣。そんな近所つきあいが濃い庶民的な街でもあった。マンションが増えることで、人間関係が希薄になることへの警戒感が強かったことも背景にあったという。

 一方、マンションの増加が別の変化をもたらした。

 10人足らずしかいなかった子ども会が、一気に50人規模になった。多くがマンション住民の子どもたちで、街に新たな活気が生まれた。商店街は「マンションを敵視するのではなく、仲良くやっていこう」と考えを変えたという。

 マンション住民との交流の象徴として、商店街が94年に始めたのが、中津川へのサケの稚魚の放流だ。多くの子どもたちが参加し、今年も3月に30回目を行った。

 「マンションにはこの街が好きで住む方など様々な人がいます。町内会の役員もいます。今では多様性と温かみのある街になっていると思います」

 ただ、将来の姿はわからない。

 子ども会の人数は今、30人ほど。マンション住民の高齢化が進む。

 「何年かおきに新しいマンションができることで子どもたちの数が維持されてきましたが、もうマンションが建つ新しい土地がなくなってしまいました」

 世代交代が進まず、子どもがほとんどいないマンションもあるという。(杉村和将)

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