残すか壊すか… 避難解除1年の浪江・津島、期限目前の公費解体

編集委員・大月規義
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 福島県浪江町の津島地区で、原発事故の避難指示が解かれて31日で1年になる。避難指示区域では家の解体は公費で賄われるが、その申請には「解除から1年」という期限がある。無料で壊せるとはいえ、思い出の詰まった我が家。避難してくらす人たちの津島の家を訪ねた。(編集委員・大月規義

 曽祖父の代から続いた津島の「松本屋旅館」を残すか、壊すか。大玉村に避難した今野秀則さん(76)が決断したのは、13年たった3月11日だった。

 仙台高等裁判所の101号法廷。津島の住民約650人が起こした裁判が開かれた。傍聴席はほぼ満席だった。原告団長の今野さんが証言台に向かう。「互いに顔見知りの住民はまさに13年前の今日、高濃度の放射能により避難を余儀なくされました」

 多くの裁判長は陳述書に目を落としながら聞く。だが、この日の裁判長は今野さんの顔をじっと見つめて聞いた。今野さんも目を背けず訴えた。

 「自然あふれる環境、歴史、伝統、文化、生きがいなどの一切を原発事故は根こそぎ奪い去りました。私たちの『ふるさとを返せ』の訴えに耳を傾けてください」。そう結んだ今野さんの頭に、津島の母屋が浮かんだという。「家は壊さず、残そう」

 大玉から津島へ戻って暮らす予定はない。自分の代で残しても、その後、自費で解体すれば数百万円はかかる。その負担は3人の子どもや孫にいく。「いま公費で解体するのが『正しい選択』かもしれない」。松本屋の周辺が帰還困難区域のなかの「特定復興再生拠点」に指定され、避難指示がいずれ解除されると分かってから悩み続けた。

 松本屋はいまの葛尾村から津島へ婿にきた曽祖父が1900年前後に建てたと伝えられている。養蚕を営んでいたが、旧富岡街道沿いだったため、泊めてほしいと願う往来の人が多く、旅館をはじめた。今野さんは県庁に勤めていたが、母や妻が続け、利用客は最盛期の1960~70年代が年2千人弱。事故の前も年400人ほどいた。

 「秀則、うちを壊すなよ」。90歳をすぎた叔母から、たびたび言われた。

 叔母がそう言い始めたのは、自分の家を解体した3、4年前からだった。同時に叔母の気力はすっかり衰えたと、今野さんには見えた。「すべての記憶は、家から発生しているんだ」。家の大切さを叔母から教えられた気がした。

 避難の13年間、動物などに入られることはなかった。ただ、地震で柱が傾き、壁の一部にひびが入った。手元の資金を考え、直すのは水回りなど最低限にとどめるという。

 公費解体の申請締め切りまで約20日に迫っての決断。「子どもたちには、残すことに納得はしないまでも、受け入れてもらいたい」と話していた。

     ◇

 公費解体は大きな自然災害を受けた地域に用いられる制度だ。少なくとも「半壊」の認定を受ける必要があり、原発事故の場合は長期避難による老朽化でも、「機能的損壊」として半壊認定を受ける家が多い。

 環境省によると、津島、室原、末森の3地区に広がる浪江町の復興拠点の住宅からは公費解体の申請が計640件あり、1月までに約8割が解体を終えた。

 申請の締め切りは「避難指示の解除から1年」だが、それを定めた法律や制度はなく、環境省と自治体との話し合いで決まる。これまでに避難指示が解除された地域との公平性を考え1年とするのが一般的だ。

 福島市に避難した三瓶春江さん(64)は、津島の家の解体を1月に申請した。木造2階建ての7間に、4世代10人が暮らしていた。玄関近くの柱には、子どもや孫が成長したときの背丈が、黒いペンで記されている。

 長年住めずにいたため、雨漏りの水で床は抜け、動物にも荒らされた。

 「解体するしかなかった」。何年も前から分かっていたが、申請はぎりぎりまでしなかった。原発事故の被害を受けた「証拠」として残すためだった。

 家を建てたのは義父の陸さんだ。85歳をすぎ、陸さんは福島市内の病院に入院した。病床で春江さんの手をにぎり、「津島に帰りたい。連れていってけろ」と頼んだ。2018年9月、その言葉を残し、陸さんは息を引き取った。

 三瓶さんは一審の福島地裁郡山支部、二審の仙台高裁とも、裁判官の現地進行協議(視察)を受け入れた。「原発事故を消し去ろうとする国の思うままにはさせない」

 家は朽ちたが、柱の印は消えずにいる。「この柱だけは壊さないでほしい」。4世代が暮らしたあかしを、せめて残したいと思っている。

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