「連合赤軍」永田洋子、森恒夫らが遺族にあてた手紙の内容明らかに

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森下香枝

 半世紀前、「総括」と称する集団リンチで戦後史に残る凄惨(せいさん)な殺人事件を起こした極左組織「連合赤軍」(連赤)。その指導者、森恒夫や永田洋子らが、逮捕直後に遺族たちへ送っていた手紙の数々が見つかった。朝日新聞が遺族から入手した手紙には、自ら突き進めた「革命」への考えやリンチの様子が生々しくつづられ、謝罪の言葉も書かれていた。

 1972年3月、連赤が「粛清」した12人の遺体が次々と群馬県の雪山から見つかった。遺族たちは事件直後、当時の状況を問いただす手紙を逮捕された連赤メンバーに出しており、その返信の手紙がそれぞれの遺族の元に届いた。山岳アジトで殺害された遠山美枝子(当時25)の母、幸子(ゆきこ)(100)が、手紙約40通分をとりまとめて書き写し、冊子にして残していた。

 冊子は、72年に現場(現・群馬県高崎市倉渕町)近くに被害者の供養塔が建立されたのを機に遺族には配られたが、これまで存在が公になったことはなかった。遠山の遺族は「手紙は読むのもつらい内容で、これまで心の奥底にずっとしまっていた」と話す。

 72年2月に逮捕された森は、同年11月7日付で遠山の母に手紙を送った。

 〈お手紙を拝見してから毎日おわびのことばかり考えておりましたが、お返事を差し上げる勇気がでませんでした〉と謝罪。そして、遠山の最期の様子を手紙で知らせていた。

 〈自分で自分の顔を殴らせたり、(略)寒中の柱に立ったままロープで縛って何日もそのままにしたりし、美枝子さんを死に至らしめたのです〉

 遠山が苦しい中、何度も「お母さん」と呼んでいたことを明かし、〈私はそれら全てを「総括ができていない」証拠にしていった。これが一片の弁解の余地すらない事実です〉と、「総括」と称したリンチの理由についても言及している。

 事件では、森と永田ら幹部が自己批判と総括を要求する中で暴行がエスカレートし、メンバーが次々と死んでいった。異様とも言える状況が生まれた背景について、森は手紙でこう説明している。

 〈いつでも戦って死ぬ決意をもった革命戦士が必要だと考え自分の独善的な頭の中だけの革命戦士像に仲間を無理やりあてはめようとした〉〈仲間を死なせてからもそれを「革命戦士になろうとしなかったから死んだ」と恐ろしい責任転嫁をした〉と、メンバーの死に対して指導部が使っていた「敗北死」の概念についても弁明した。

 〈私は本当に「革命の暗黒」をつくったのです〉

 手紙の最後には〈私は生ある限りそのお憤りを受け続けるつもりでおります(略)終生自己批判の道を歩むつもり〉とつづられていたが、その2カ月後、森は拘置所で自殺した。

永田洋子が被害者遺族に宛てた手紙

永田洋子も事件直後、「遺族の怒りにふれるのが恐ろしかった」などと謝罪が遅れた理由を釈明しています。識者と手紙を読み解きます。

 永田も、遺族に宛てた手紙の…

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