名字も自分の名前、失いたくない 夫婦別姓の議論で軽んじられる本質
婚姻の際に夫婦別姓も選べるよう法改正を求める訴訟が、また始まります。結婚により改姓し、2011年に始まった夫婦別姓訴訟で原告団副団長を務めた小国香織さんは、「自分の名前」を失うことの意味が軽んじられている、と指摘します。話を聞きました。
「名字程度のこと」なのか
選択的夫婦別姓を求める訴訟の原告を経験し、今は新たな訴訟を支援する立場で活動しています。最高裁が現在の法律を合憲と判断したり、政治が動かなかったり、いまだに実現しない理由はさまざまですが、私はそもそも「名字も自分の名前」であり「名前を変えたくない」という本質的な部分が十分には理解されていないことが大きいように感じます。
確かに、改姓を喜ぶ人もいれば、「同姓でも別姓でも、どちらでもいい」と考えている人もたくさんいますし、「体を傷つけられる」とか「お金がなくなる」といった苦痛とどうしても比較されてしまいます。自分の名前を失うことの重大さは、容易に軽んじられてしまいます。
私は、「自分の名前」には二面性があると感じています。一つは、個人を識別する機能です。ラジオのロシア語講座で聞いたなぞなぞがあります。「自分のものなのに、他人が使うのなんだ?」で、答えは「イーミャ(名前)」。私は「半分合ってるけど、半分足りない」と思いました。「名前は個人の識別のためにある」という認識しか感じられなかったからです。
本当は、もう一面あります…
- 【視点】
選択的夫婦別姓を認めて下さい。小国さんが指摘していらっしゃるようにアイデンティティの拠り所としての名前を失うという心的損害もあれば、それによりキャリアの継続性が分断されて見えてしまうという物理的な損害もあります。銀行口座やクレジットカードな
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