避難指示解除10年 洋食店はコンビニに つながり願ったシェフの思い

編集委員・大月規義
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 福島県田村市の都路地区の東部(原発20キロ圏)で避難指示が解除され、4月1日で丸10年を迎える。いまも復興の工事は続き、戻った人口は、東京電力福島第一原発事故の前の半分。地元に戻っても、亡くなった人が少なくない。隣接する帰還困難区域の避難指示がなくならない限り、都路の復興も限界があるようだ。

 都路を東西に走る細い国道288号には、ひっきりなしに大型トラックが行き来する。道路の拡張や、風力発電施設を造るための工事車両だ。

 平日の昼間、旧避難指示区域から少し外れた国道沿いのコンビニは、工事作業員らでにぎわう。弁当を食べたり、仮眠したり、作業員には憩いの場所だ。

 この場所には「ホットハウス」という洋食レストランがあった。1979年、当時20代だった都路の兄弟が始めた。弟の渡辺辰二さん(69)は東京・渋谷のフルーツパーラーで修業。2歳上の兄、辰夫さんは帝国ホテルのシェフから指導を受けた。2人は故郷に戻ると、自慢のデミグラスソースで客を呼んだ。

 東京電力福島第一原発の事故で休業を余儀なくされても、翌12年8月、避難指示がない20キロ西の船引地区に土地を見つけ洋食店を再開した。都路の避難指示がなくなると、2人は帰還したが、店は船引で続けた。もとのホットハウスは、軽食を出す休憩施設に衣替えした。施設の名前は「結(ゆい)」。「住民同士はいつまでもつながっていたい」という辰夫さんの思いが込められていた。

 国は、解除後に都路へ帰還する住民を増やすのに躍起だった。解除後1年以内に戻った住民に賠償金を1人90万円積み増す誘導策を講じた。都路にはなかったコンビニの誘致も計画した。

 「『結』の土地をコンビニに提供する」。辰夫さんが決めた。地元の商工会長も務めていた。「国のためじゃない。都路のみんなのためだ」。当時、記者の取材にそう語っていた。

 数年後、辰夫さんに食道がんが見つかった。すでにステージ4だった。続けて辰二さんも2018年夏、大腸を悪くした。「もう無理だろう。店を閉めないか」。厨房(ちゅうぼう)で辰二さんがそう切り出した。「仕方ないな」。辰夫さんは寂しそうにつぶやいたという。

 辰二さんは振り返る。「痩せていた。病気もあったし、事故後のストレスもあったしな」

 その年の終わりに店を閉じた。翌年、辰夫さんは67歳で他界した。

 「原発事故のあとは、いい思い出がない」と辰二さんは言う。「都路に人は多少戻ったかもしれないが、隣の大熊町や富岡町に行っても何もない。ここで暮らしても、何とも言えない閉塞(へいそく)感がある」

 都路東部の居住者は、2月末時点で197人と原発事故前の51%だ。原発事故で過疎化は一気に進んだが、戻った住民らは農業法人をつくって田畑の再生を進めるなど、町の維持に努めている。(編集委員・大月規義

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