Re:世代論⑤ 社会学者・富永京子さん
多様化が叫ばれる現代、好みや価値観における世代間の差が縮まっているとの調査が発表され、「価値観でつながろう」との声も上がる。「世代論」は必要なのか、どう向き合えばいいのか。今こそ「世代論」を問い直し、新たな形を探りたい。
世代論は、若者論でもある。若者世代が社会運動に携わったことを知ったとき、私たちはなぜ熱視線を送ってしまうのか。若者だから? 課題が革新的だから? 若者と社会運動を研究する、立命館大学准教授の富永京子さん(社会学)に聞いた。
――ここ数年で耳にすることが増えた「Z世代」というくくり方ですが、本来は1990年代半ばから2010年代前半を指す言葉なのにもかかわらず、「若者世代」全般を指しているような伝え方も見かけます。意図的に若者とキャッチーな「Z世代」という言葉を掛け合わせ、本来伝えたいことを強調させる機能を持たせているように感じてしまっています。自戒も込めてですが、そもそも、若者の運動にやたらと熱視線を送る風潮があるように感じます。
私も先日ラジオでした発言で「自分、ださいな……」と思ったことがありまして。
若い人が政治に対して声を上げる意味について言及したんですよ。そのときに、「若い人って権利への感覚が鋭くて、年長者が内面化した価値観のゆがみを指摘してくれることも多い。私も、自分より年下のカウアン・オカモトさんとか、五ノ井里奈さん、伊藤詩織さんの活動から、『間違っていることには声をあげていい』とか、『これまで当たり前だとやり過ごしていたこともれっきとした加害なんだ』といったことを教えていただきました」みたいなことを言ったのです。
でも振り返ってみると、「そんなもん、年少者から教えられるまでもなく自分で学べよ」みたいな。若い人に寛容なムーブを取りたい自分が見えて、ださいなと。「年下の人から学びました」というのは、イコール「年下の人をなめてました」と言っているのと変わらないような気もして。
例えば、近年は気候変動に対する運動が盛んで「若い人が気候変動に対して敏感だ」といった言説がよく見られますが、それは1980年代の反原発運動などでも見られた、繰り返し行われる若者語りでしかない。では、社会運動における若者語りがなぜこんなに単調に繰り返されるのかということを考えなきゃいけない。
――というと。
私がラジオの発言を振り返ったときに思い出されたのが、1980年代の「若者」言説でした。
実は1980年代以降、特にリベラルな政治的立場にある人たちが若者の言うことを聞くようになるのです。
1980年代だといわゆる「新人類」と呼ばれる人たちが代表的ですね。
ジャーナリストの故・筑紫哲也さんが、「朝日ジャーナル」(1992年廃刊)で「若者たちの神々」という企画をしていました。同時代の若者から支持された糸井重里さんや日比野克彦さんらの話を聞くという人気企画です。
それを読むと、筑紫さんは彼らの話をよく聞くし、あまり否定もしない。どちらかと言えば、若者の率直な発言、素朴な疑問を、既存の左派運動、いわゆる戦後民主主義的価値観を批判する道具として筑紫さんが使う場面がたまにあるんですよ。
例えば当時から、身体や精神障害などの差別語に対して自粛・規制を求める運動があったのですけど、そういう運動に対して「正しさに凝り固まった思考停止だ」という若い論客がいる。その意見を素朴に受容して、筑紫さんが自身の意見を述べるんです。
なにかそれって、「若者に寛容なムーブ」があるようで、一方で自分の政治的理念を主張するために若者の素朴さ、率直さを利用しているような印象を受けてしまったんですよね。自分もそういう振る舞いをしているときがあるなあと思うのです。
「若者は社会に無関心」という前提
――若者に寛容なムーブ、わかる気がします。ただ、何かを前進させるために必要なことなのかなと思いますが。
基本的に社会運動は革新を繰…
- 【視点】
世代論って、本当に多様で多面的なのだなあ。いろんなところに思考が枝分かれして伸びていく論なのだなあと、この連載に感じます。 ヒオカさんのインタビューでは、「強さ」のとらえ方について考えさせられました。パワハラやセクハラへの耐性をバブル世代
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