マンション建設予定地に堀? 秀吉が建てた「聚楽第」近くで発掘
京都市上京区のマンション建設予定地で、堀のような遺構が発掘された。京都市文化財保護課が発表した。豊臣秀吉が建てた「聚楽第(じゅらくだい)」の西側の外堀があったと推定されている場所だ。同時期のものと考えられる金箔(きんぱく)瓦や飾り瓦なども出土しており、今後の聚楽第の復元研究において貴重な成果になりそうだ。
聚楽第は、秀吉が関白に就いた後の1586年に着工し、現在の京都御所の西約1キロに建てられた。おいの秀次に関白の座とともに譲るが、秀吉に実子が生まれると、秀次は失脚して切腹。聚楽第も徹底的に破却された。
内堀は絵図などにも描かれているが、西側の外堀については描かれておらず、存在していたのかは不明。今では住宅密集地のため、大規模な発掘調査も困難だ。
2016年には京都大防災研究所などの研究グループが、掘らずに地震計で地中を調べる「表面波探査」をした。その結果、今回の調査地点付近には幅約45メートルの外堀が存在する可能性があるとされていた。
今回発掘された遺構は、表面波探査による推定ラインの場所にあった。幅約12メートル、深さ約3メートルで南北方向に続く素掘りで、断面の形状はゆるやかなU字状になっている。
聚楽第跡で堀のような遺構の両端を一度に確認できたのは初めてだといい、幅は推定されていた45メートルの4分の1ほどだった。文化財保護課は、表面波探査が隣接する土坑も誤って検出したとしている。遺構からは聚楽第と同じ時期の瓦も大量に出土した。
同課の担当者は「西外堀の想定位置で、外堀の可能性がある大規模な遺構の両端を確認できたことは意義深い。聚楽第の範囲を決める『縄張り』の役割を果たした溝のようなものだった可能性もある」と話す。
滋賀県立大の中井均名誉教授(日本城郭史)は、戦国武将・蒲生氏郷の家紋「巴(ともえ)」紋をあしらった金箔飾り瓦が出土したことに注目する。絵図でも聚楽第の西側には大名屋敷が並んでいたことが描かれており、調査地はちょうど絵図で蒲生氏郷の屋敷が描かれている場所でもある。中井さんは「絵図通り、大名屋敷があった決定的な証拠。堀状遺構も合わせて、聚楽第の復元研究にとって、重要な成果だ」と話す。
ただ、遺構自体が外堀の可能性については、中井さんは慎重に判断する必要があると指摘する。石垣が出土していない▽幅が秀吉の城の堀にしては狭い▽堀の断面がU字でゆるやかという理由から、堀ではない可能性を示唆。「別の場所での調査と合わせて、判断する必要がある」と話した。
一方、遺構に隣接して、近世の土取り土坑も発掘された。楽焼や最高級土壁に使われた土「聚楽土」の大規模な採取場だったと考えられるという。茶わんなどの遺物などから江戸時代後半以降に土取りが行われていたことがわかり、市文化財保護課は「堀のような遺構が近世になっても土地利用のラインとして機能していたと思われる」とする。
今回の調査地の東は土屋町通に面する。土屋町の名前は、付近に粘土の採掘・販売事業者がいたことに由来すると考えられ、土取り土坑との関連も想起される。
今回の発掘はマンション建設に伴う調査で、約900平方メートルで行われた。危険が伴うため、現地説明会などの予定はない。