どうする利長 関ケ原後の有力大名の慎重さ、秀忠書状で明らかに

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大谷秀幸
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 徳川家康が天下分け目の関ケ原の戦いで勝利してから豊臣家が滅ぶまでの間、徳川家と全国の大名には強い緊張関係があった。それが伝わってくる史料が新たに見つかった。

 富山県高岡市立博物館が16日に発表したのは、2代将軍・徳川秀忠の書状。加賀前田家2代利長に送ったものだ。5月1日付で、関ケ原から9年後の1609(慶長14)年のものとみられる。

 京都の古美術商を通じて見つけたという書状は縦45・1センチ、横61・5センチ。大きく厚手の「大高檀紙(だんし)」は、同館主幹の仁ケ竹(にがたけ)亮介さん(48)によると、秀忠の権力の大きさを示すという。

 書状は、隠居した利長が居住するため高岡城(同県高岡市)を築くことを許可するもの。仁ケ竹さんによると、具体的な内容はこのようになっている。

前田家の慎重さ、理由は

 「あなたの居城普請(高岡築…

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