教訓、反省、課題……退任する釜石市長、4期16年を振り返る

東野真和

 岩手県釜石市の野田武則市長(70)が17日に退任する。4期16年を務め、その任期の多くを東日本大震災からの復興に費やした。「縮むまち」の再生に奔走した日々。退任を前に記者団と懇談し、震災の教訓、反省、課題などを語った。

 「茫然自失(ぼうぜんじしつ)だった」

 震災発生直後、街を襲う津波を市役所屋上から見たときを、こう振り返った。

 1カ月後、新日鉄(当時)の宗岡正二社長が釜石を訪れた。「新日鉄がある限り釜石とともにある」と従業員に語ったのを聞き、胸をなでおろしたという。

 以来、「不撓不屈(ふとうふくつ)」を合言葉に「震災前よりもっといい街に」と復興事業を進めた。「思い描いた100%ではないが、いい形で終われた」と自己評価した。

 その例として、市街地に大型集客施設のイオンを誘致したことを挙げた。当時の市街地は「シャッター通り」と言われていた。「地元で買い物をする市民の割合が県内の市のうち下から2番目で、集客施設が必要だった。異論もあったが、商店街の中に、再建しようという店も少なかった」と決断した背景を語った。

 さらに、早期再建のため、土地の整備に時間をかけないようにと、市街地はかさ上げせずに、湾口防波堤と緑地帯で津波から守る設計にした。「100年後に見直してもこれ以上の計画はない」と胸を張る。

 ほかにも、橋野鉄鉱山の世界遺産認定、釜石鵜住居復興スタジアム建設、ラグビーワールドカップの試合実現などを成果に挙げた。「ピンチをチャンスにという気持ち」だったという。

 しかし、人口減少には歯止めがかからず、地域経済も衰退を続けている。

 ただ、日本語学校や岩手大農学部水産システム学コースの誘致、釜石で働きながら休暇を取るワーケーションの受け入れ体制の整備などを挙げ「やるべきことはやった」と総括する。

 一方で、反省も「いっぱいある」とした。多くの避難者が津波の犠牲になった鵜住居町の防災センターでの惨事については、「悔やんでも悔やみきれない」。

 「防災センターという名前をつけてしまい、避難訓練で使ってはいけなかった。センターは一時的な緊急避難場所で、避難所との区別が市民にはなかった」と無念さをにじませた。

 そのうえで、「市民一人ひとりが自分の命を守る力を養わねばならない」と訴える。市として、震災検証を重ねて教訓集を作り、避難や備え、伝承などを誓う防災市民憲章を制定した点を強調した。

 17日は、午後2時から職員らに最後の訓示をして、庁舎を去る。(東野真和)…

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