関東大震災、仙台に流れ込んだ避難者とデマ 東北大・災害研で企画展

編集委員・石橋英昭
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 東北地方にとって、関東大震災は決して遠く離れた出来事ではなかった。大勢の人が東京から鉄道で逃れ来て、朝鮮人を巡るデマは仙台でも瞬く間に広がり、間違われた人への暴行事件も起きていた。東北大災害科学国際研究所(仙台市)で始まった企画展を手がかりに、100年前にタイムスリップしてみる。

 1923年9月1日正午前。震源の相模湾から約400キロ離れた石巻の測候所でも、震度3を記録した。仙台の警察署では揺れで電灯が消え、署員が一時避難したという。

 関東の情報が入り始めたのは、夜になってからだ。河北新報は午後10時、号外を発行。2日夕刊で「東京横浜殆(ほとん)ど全滅」と伝えた。

 3日ごろから、住まいを失った人々が地方へ避難を始めた。宮城県内にも最大1万人が流入したとみられる。彼らは口々に東京で体験した恐怖、見聞きした惨状を話した。

 「強震後の火災で親同胞の安否さえ顧みる暇なく、素っ裸のまま子供や老人を背負うて停車場や上野の山に避難して来る」

 「幾度か津波襲来の報が伝えられ……覚悟を決め万一の場合は家屋もろとも流されようと駅の大柱に体を結びつけようと準備した」(河北新報記事から)

 仙台市では西公園にあった市公会堂などが救護所となり、旧制二高生や花柳界の女性らが炊き出しなどで支援した。隣の七郷村(当時)では、定住を望む避難者向け住宅団地も建設された。

 こうした助け合いの一方で、不穏な空気や混乱も流れ込んできた。

 避難者の不確かな伝聞によって、根拠のない「不逞(ふてい)鮮人」侵入の流言が急速に広がり、新聞も報じた。

 「東京方面より一名の朝鮮人が仙台市に潜入……某宿屋に投宿し在仙の朝鮮人と気脈を通じ何事か画策したらしく」(同)

 避難中だった青森県出身のコックが朝鮮人と間違われ、仙台駅で列車から引きずり降ろされ暴行を受けたり、白いはんてん姿の人力車夫がやはり誤認され、自警団に包囲されたり。同種の暴行事件が9月10日前後まで相次いだという。

 5日には県の内務部長を中心に対処方針が示され、「無辜(むこ)の朝鮮人」は救護収容することに。虐殺までは起きなかったものの、自警団などの行きすぎた警戒活動に、当局が苦慮した様が浮かぶ。

 明治以降の近代化で東京とのつながりを強めていた東北は、震災による経済的影響も大きかった。

 発災直後に仙台正米市場の米価が高騰した一方、生魚類は東京の市場が閉鎖したため供給過多となり、大幅に下落。被災地の復旧工事を見越して、トタン板など建築資材の買い占めが多数発生した。東京との物流が途絶したことから、大阪・神戸と塩釜港との間で航路を設ける動きもあったとされる。

 調査した川内淳史・東北大准教授(歴史学)は「関東大震災が、想像以上に東北に影響を及ぼしていたことがわかった。今後想定される大地震でも、遠隔地への社会的影響をもっと考えるべきだ」と話す。

     ◇

 企画展「仙台に残されていた関東大震災の記録」では、当時の河北新報の記事のほか、発災直後の被災地を撮った35ミリフィルムの映像も紹介。もとは岩手県内の古い蔵にしまわれていたものを、NPO法人・20世紀アーカイブ仙台がデジタル化し、今回初公開した。

 会場は、東北大青葉山キャンパスの災害科学国際研究所で、12月22日まで(平日のみ)。9月28日午後にシンポジウムもある。詳細は研究所ホームページで。(編集委員・石橋英昭

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