憧れた「おしん」の国 さしこんだ光と影 ベトナム国交50年

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小早川遥平 根岸拓朗
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 日本とベトナムが国交を樹立して今月で50年を迎えた。日本は最大の援助国としてベトナムの発展を支え、ベトナムは右肩上がりの成長を続けてきた。ただ、経済発展の陰にはひずみも生じる。両国ゆかりの人たちはいま、これからの豊かさを模索する。(小早川遥平、根岸拓朗)

ホンダ」も「おしん」も ベトナム語に

 来日25年目になる大阪市のチャン・ティ・ヒエンさん(49)はベトナム語通訳として多忙な日々を送る。全国の入管施設や自治体、裁判所などから次々と仕事が舞い込む。

 日本とベトナムの国交が樹立された1973年、北部タイビン省の農村に生まれた。太平洋戦争末期、進駐していた日本軍が稲を麻に転作させたことなどで、多くの餓死者を出したとされる貧しい地域だ。

 軍医だった父親は日本撤退後もインドシナ戦争、ベトナム戦争で戦場に出た。各家には防空壕(ごう)があり、爆弾の一部が体内に残ったままの人が近所にもいて、幼いころの記憶にはベトナム戦争が色濃く残る。

 戦火はやんでいても、「犬や鶏は航空機が上空を飛ぶだけでワラの下に隠れていました」

 戦後、多くの若者が仕事を求めて南部に出た。ヒエンさんは地元の高校を出た後の94年、看護師養成プログラムで日本に渡った。月200ドル(当時約2万円)で高給といわれた時代、数倍の月収にひかれた。

 当時、ベトナムでは日本のドラマ「おしん」が人気で、「おしん」という言葉が「家政婦」の意味で使われた。「忍耐強い女性のシンボル。東京で雪を初めて見たときには、おしんの国に来たのだと実感しました」と振り返る。

 その後、帰国し、ハノイにできたホンダの現地法人に就職した。

ヒエンさんが日本に来て直面したのは、罪を犯して母国に送り返される若者たちでした。記事の後半ではベトナムの少数民族の文化に魅せられた日本人女性を紹介します。

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