処理水放出、反対意見に触れず 「副読本」の問題点は 識者に聞く

聞き手・笠井哲也
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 東京電力福島第一原発処理水の海洋放出をめぐり、教育の場で、漁師らの反対意見が「不可視化」されている――。原発事故後、「放射線副読本」を研究してきた福島大の後藤忍教授(環境計画)は指摘する。いま、何が起きているのか聞いた。

 ――原発事故後、文部科学省が発行する小中高生向けの「放射線副読本」に注目されてきました。なぜですか。

 「自分自身もどこか信じていた『安全神話』がなぜ広まったのかを考えた時、副読本などを使った国からの情報提供が、認識の形成に大きく影響していただろうと考えました。自分自身の反省を踏まえ、それをきちんと記録し、指摘しようと思ったんです」

 「例えば原発事故前に作られた2010年版の副読本は明らかに偏っていて、虚偽もありました。わかりやすいのが、火力発電と原子力発電を比べたページです。火力発電所は怖い表情で、石炭をばくばく食べている。排出される二酸化炭素は無色透明なのに、わざわざ黒い煙で描いています。それに対して原子力発電所は優しい顔をしています。公平に情報を載せるのであれば、発電の結果出てくる廃棄物も書くべきですが、放射性廃棄物は書かれていない。別のページでは、原発は、地震や津波にも耐えられるよう設計されていて十分な余裕を持つ、とまで書かれていました」

 ――処理水について、副読本はどのように説明しているのでしょうか。

 「14年版では、廃炉の課題として『原子炉からの核燃料の取り出しや汚染水の問題』などと記されていました。それが18年版になるとなくなり、事故を乗り越えるための課題を『考えてみよう』と、読み手に丸投げされる形になります。21年版では『廃炉に向けた課題』という欄が加わったのですが、課題がなぜか処理水の海洋放出に絞られています。廃炉で一番重要と考えられる溶け落ちた核燃料(デブリ)の取り出しには触れていません。内容も政府見解を一方的に伝えるもので、漁業従事者などの反対意見は載っていません」

 「副読本の『はじめに』には、『一人一人が事故をひとごととせず、真摯(しんし)に向き合い』、考えるきっかけにとあります。放出で一番影響を受ける当事者である漁業従事者の声を載せないことは、それと矛盾しているのではないかと思います」

 「子どもは、副読本がこう言っているから正しい、と思いがちです。当事者と統治者がいるとして、後者の視点になってしまい、当事者として考えられなくなっていくのではないでしょうか」

 ――処理水については、県内外の高校に経済産業省の官僚らが出向き、「出前授業」も行われています。

 「教育は、大事なことをしようと思ってやる行為・営みなので、どうしても価値観がつきまといます。完全な公平というのは難しいと思います。けれども、政府側が教育現場に働きかけて出前授業をやるのなら、反対の意見を言う市民も講師に呼ぶべきです。補助金を出し、無料で両方の意見が聞けるような場を確保する。そうしなければおかしいと思います」

 ――教育の場で、政府の考えを伝えることは当然だろうという声もありそうです。なぜ「偏り」が問題なのでしょうか。

 「多様な視点で議論する芽を摘んでいるからです。文科省教科書検定基準には『特定の事項、事象、分野などに偏ることなく、全体として調和がとれていること』、『特定の事柄を特別に強調し過ぎていたり、一面的な見解を十分な配慮なく取り上げていたりするところはないこと』とあります。副読本を仮に検定にかけたらどうなるか。基準を満たしていないのではないかと言いたくなります」

 「異論を封じて一方的な意見を伝えるのは、事故前の原発の安全神話をふりまいていた時と変わらないのではないか。事故の教訓はどこへいったのでしょう」

 ――副読本の内容について、処理水以外でも気になる点があるそうですね。

 「例えば『汚染』という単語をみると、14年版の中高生用では8回出てきましたが、18年版では1回だけ。しかもそれは『廃炉・汚染水対策ポータルサイト』という固有名詞で、消せないものです。あとは全て『除染』されました」

 「象徴的なのは、18年版から爆発した建屋の写真がなくなり、復興の状況を表す写真に差し替えられたことです。国際的な事故評価尺度(INES)で、世界最悪のレベル7の事故だという説明も削除されました。同じ『7』でも、放出された放射性物質の量は、チェルノブイリ原発事故に比べて約7分の1という数字として残り、事故は大したことがないという説明に変わりました。私が重視していた、子どもは放射線の感受性が高いという、子どもにこそ伝えるべき記述も削除されました」

 ――原発事故やその被害が「不可視化」されていると指摘されています。

 「嫌なことは見たくないし、気分が重くなるというのは分かります。一方で政府は、教訓の継承、事故を二度と起こしてはならないと言っているわけです。そのためには、何を失敗したのかを一つ一つ特定していかなければいけない。そこが抜けたまま教訓を伝えようとするから、肝心なことが記録されていない。『よらしむべし、知らしむべからず』という、大事なことは伝えず、政府に任せておけば大丈夫という方向に、また戻っている感じがします」(聞き手・笠井哲也)

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 ごとう・しのぶ 1972年、大分県生まれ。大阪大大学院工学研究科環境工学専攻修了(工学博士)。2001年から福島大、23年4月から同大大学院共生システム理工学研究科教授。原発事故後、原子力教育の問題点に関する研究に力を入れ、12年には文部科学省が作成した放射線副読本に対抗する形で独自版の副読本を作った。

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 〈放射線副読本〉 放射線に関する科学的な知識を身につけてもらう目的で、文部科学省が小中高生向けに作成している(2010年版は経済産業省と共同で作成)。原発事故後は11年10月に発行され、14年2月、18年9月、21年10月に改訂された。19年12月~20年1月の全国調査によると小学校では約50%、中学校では約60%、高校で約30%が活用している。

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