「陰謀論がはびこる世の中にお化けは湧きにくい」 京極夏彦さん 下
――シリーズの舞台を昭和20年代の後半に設定したのはどうしてですか
お化けを扱うということが、まずありました。お化けを扱うといっても、やはり戦前と戦後ではずいぶんちがうんです。お化けというのは生活する人々の文化、あるいは暮らしそのものが反映していくもので、戦争をはさんで、それ以前と以降のお化けには断絶があるんです。現在われわれがお化けだ、妖怪だと言っているものは、やはり戦後のお化けのかたちなので、戦前にはできないだろうと。結果的に(アメリカによる)占領が解けた講和後ということで、最初の「姑獲鳥の夏」の時代を設定しました。
もうひとつ言えることは、先ほども言いましたようにお化けというのは、生活者のあり方に深くかかわって、その姿形を変えます。そもそも民俗学者が集めているお化けというのは、民族共同体の共通事項としてあったものです。しかし共同体が崩壊していき、同時に情報の交換が速やかになっていきます。情報交換と民族共同体の文化的な意識の相乗効果で、お化けはどんどん変わっていくんですね。
今回は、じつは情報を交換することによってネットワークが生まれ、物理的には離れているにもかかわらず、新しい民族共同体が形成されつつある、というものを扱ってみました。実体はまったくないんだけれども、共同体として疑似的に存在する何か。いまでいうならば、SNSを通じて同じ意見を持っていると勘違いしたひとたちがひとつのグループを作りますね。そのなかでしか使われないものがあったり、それは外から見ると異様なものだったりする。そうしたいくつかのものがぶつかると、かなり面倒くさいことが起きますね。
そういうところにじつは、お化けのもとが、昔はあったんですね。民族共同体同士のあいだに差異があり、その軋轢(あつれき)からお化けが生まれてくる。情報によって疑似的に生まれた民族共同体のあいだにも、そういうものが発生しうるのじゃないか、ということを考えました。
――つまりお化けは何らかのいさかいを収めてくれる、われわれにとって必要なものとして生まれてくるのでしょうか
不必要なものだったら生まれないと思いますね。たとえば、村で暮らしているひとは、村の外のひとたちがこわいわけですよ。自分たちの文化とちがう文化を持っているひとたちというのは、非常に恐怖なんですね。でも相手もひとだから、「お前らこわい」と言ったら差別になっちゃいますよね。これはやっぱりいけないことで、それは当時もそうだったんです。そのくらいのことは昔のひとたちもわかっていた。
よく異人を妖怪化するみたいな言い方をするんだけれども、外部の人間と接触することによって生まれる恐怖は、何らかのかたちで納得させなければならない。そのために、恐怖の部分にかたちを与えるなり名前を与えるなりして生まれたお化けというのが、ことのほか多いんです。つまりお化けを馬鹿にしたり笑ったり、怖がったり退治したりすることによって、人間同士の軋轢をある程度は収める。恐怖を和らげる。お化けにはそういう役割を持っている部分があるんです。お化けはこわいと言いますけれど、こわくなくするためにあるものでもあるんですよ。ただ、こわくないと、お化けは生まれないんです。こわくないとお化けは生まれないですけど、お化けはこわくないんです。面倒くさいですね。
――現代の私たちも、外部の…