なぜ栃木で朝鮮人が殺されたのか 関東大震災後の実態とは
1日は関東大震災から100年。栃木県内でも大震災後に流言が広がり、罪のない朝鮮人らが殺された。大きな被害がなかったにもかかわらず、なぜ悲劇は起きたのか。背景には栃木特有の事情が絡んでいた。
この問題の研究を続けてきた国立歴史民俗博物館研究部の樋浦郷子准教授(50)は今年12月、2015年の論文に追加調査を加え、発表する。
帝京大学宇都宮キャンパスに勤務していたころ、県内で拡散した震災直後の流言を調べた。別の研究で地元の新聞3紙を見ていたところ、1923年9月1日以降の紙面に驚いた。
樋浦さんの論文によると、「朝鮮人は疲労と食糧欠乏のため今夜辺り死にものぐるいとなり暴動を起こすおそれ」(4日付)、「足尾銅山の朝鮮人労働者が放火暴行中などの噂(うわさ)」(6日付)などと連日、流言が裏付けのないまま掲載されていた。
それに刺激された人たちによる事件も報じられた。
「3人の朝鮮人が(宇都宮駅に)下車したので宮署に引致、群衆が『叩(たた)き殺せ、撲(なぐ)れ』と押し寄せた」(4日付)、「東那須野駅で朝鮮人1人と同行者を在郷軍人と消防組員百余人が撲殺」(7日付)……。
樋浦さんによると、県内の流言関連事件では3、4日だけで朝鮮人5人が死亡し、14人が重軽傷を負った。裁判の内務省統計では、朝鮮人の殺人・傷害致死が4件6人、中国人の傷害致死が1件1人、朝鮮人と間違われた日本人の殺人が2件2人となっている。
当時、ラジオ放送は始まっておらず、新聞が重要な情報源だった。そうしたなか、宇都宮市の陸軍第14師団は住民をあおる情報を流した。「社会主義者は多数の朝鮮人や中国人を煽動(せんどう)」「朝鮮人より背後の(社会)主義者を取り締まることが必要」。「宇都宮が全滅と聞いた長野市長から見舞い電報」といった報道もあった。
樋浦さんは指摘する。「栃木の場合、ほとんど被害がなく、戒厳令も敷かれていなかった。問題は日常の延長で起きており、いつでも、どこでも起こりうる今日性を示している」
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壊滅的な被害が出た首都圏から離れていた宇都宮市では電話が通じていたため、新聞の取材や電信電話の中継地になった。ゆえに県内では首都圏とは異なる「緊急事態」が生じた、と樋浦さんはみる。
被災者は列車などで県内に入った。宇都宮や小山などの主要駅や駅近くの寺に救護所が設けられた。被災地の話を聞こうと人々が群がり、被災者は被害状況や見聞きしたことを話した。
陸軍第14師団は東京への治安維持に出動した。さらに同師団の400人は大正天皇が静養していた日光の警備にあたった。これらが宇都宮市民らの自警意識や緊張感を高める要因になった。また、当時の栃木県知事は他県と異なり、流言対策を取らなかったという。
宇都宮市では震災の7年前、最新技術を使った戸祭配水場が完成した。東京での流言は「井戸に毒」だったが、宇都宮では「水道に毒」となり、水道の使用を控える地域が出た。在郷軍人が配水場を自主的に徹夜で警備したという。
樋浦さんは「下野中学校(今の作新学院)などの生徒が銃剣を手に午前2~3時から夜明けまで市内を警戒した」との報道に注目する。「栃木特有の事例」と捉え、「軍事教練が必修になる前。教育勅語の『一旦緩急あれば』の教えを強制的に実践する機会に利用したのでは」と指摘する。
やがて、警察が市民の凶器携帯を禁止し、軍部が流言は厳重に処分するとの談話を出し、事態は沈静化していく。
しかし、警察が震災を機に宿泊施設への踏み込みや思想調査などを進めたことも報道からは読み取れる。樋浦さんは「2年後に成立した治安維持法など、統制する側にとっては民衆を抑えつける足がかりになった。朝鮮人の差別的扱いも震災後にあからさまになっていった」と分析している。
〈関東大震災と朝鮮人らの虐殺〉最大震度7の地震で東京、横浜を中心に10万人超が死亡した。混乱に乗じて朝鮮人らが殺害される事件が各地で多発。朝鮮人犠牲者は約6600人に上るとする調査もある。群馬県旧藤岡町でも朝鮮人17人が殺され、千葉県旧福田村では行商人が朝鮮人に間違われ妊婦や幼児ら9人が惨殺された。労働運動家が軍隊に殺された亀戸事件、憲兵隊が無政府主義者の大杉栄らを殺した甘粕事件もあった。
◆当時の新聞報道の差別的表現は改めました。
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