蜃気楼の記憶 藤井聡太を翻弄した勝負師 村田顕弘六段の乾坤一擲
将棋の村田顕弘六段(36)は6月、王座戦挑戦者決定トーナメント準々決勝で藤井聡太名人・竜王(20)=王位・叡王・棋王・王将・棋聖と合わせ七冠=に敗れたものの、オリジナル戦法「村田システム」で王者を翻弄(ほんろう)し、八冠阻止寸前まで追い込んだ。7月11日、第82期名人戦・C級1組順位戦で佐藤和俊七段(45)戦に臨む村田六段に過去の歩み、順位戦への思い、あの一局の真実を聞いた。
遠い春の日、村田顕弘は蜃気楼(しんきろう)を見た。
1994年4月、兵庫県尼崎市から富山県魚津市に転居した直後のこと。
まだ7歳の小学2年生だった。
せっかく魚津に来たんだから、観光名所になっている自然現象を見てみようよ――。両親、姉との家族4人で海岸まで出掛けた。
大気中での光の屈折によって生じる幻影は少年の心を捉えた。富山湾の対岸に望む橋は空に向かって伸びているように見えたし、洋上の船は反転したまま航行しているようにも見えた。
少年は思った。
世界には自分の想像を超えた何かがあるのだと。現実には存在しないものがまるで実体のように映る。そのようなことが本当にあるのだと知った。
魚津に来て夢中になったのはスーパーファミコン、そして将棋だった。
より熱中したのは、なんと「スーファミ」だ。筋金入りの「ドラゴンクエスト」党で宝箱の隠し場所を全て覚えてしまうくらいに遊び倒した。後に棋士になるような子は、何かに没頭すると極端に没入してしまうものなのだ。
将棋は習い事のひとつとして考える程度だったが、好きだった。尼崎に住んでいた頃、アマチュア初段の父・優(まさる)さんからルールを教わっていたが、せっかくだし……と、ちゃんと習うようになった。
学校の将棋クラブで盤駒と戯れ、週2回は地元の道場まで足を運んだ。今でも覚えているのは、会心の一局でも恥ずかしい失敗談でもなく、道場から自宅まで母・ひろ子さんの運転する車で帰る時の開放的な気分のことだ。母の好きな槇原敬之を聴き続けたり、時々はおいしいラーメン屋さんに行ったりもした。平凡だけれど、心の奥にある大切な風景なのだ。将来の夢なんて、まだ考えもしなかった。
後に棋士になる者としては晩学だった。通常は小学校入学前、あるいは低学年時には熱中し、高学年にもなれば才能を開花させて周囲から「天才」「神童」などと呼ばれるようになる。そして唯一無二の道として棋士を志すようになる、というのが自然だが、村田の歩む速度は少し違った。
小学4年だった96年、七冠になった直後の羽生善治九段が北陸の将棋大会にゲストとして訪れたことがある。憧れの人だった。人気はすさまじく、100人もの子供たちに対して同時に指導対局をする「百面指し」の抽選にも村田は外れ、指をくわえて眺めることしかできなかった。大会で上位入賞すれば本人から賞状を受け取るチャンスもあったが、村田に勝ち残るだけの力はなかった。
同じ頃から少しずつ、将棋で…