どこ行く家康 危険な逃走劇「伊賀越え」、実は奈良を逃げていた?

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小西孝司
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 441年前の6月2日。「本能寺の変」の勃発に、堺見物をしていた徳川家康は必死の思いで「伊賀」(現・三重県)を通って領国の三河(愛知県)に逃れた。「神君(しんくん)伊賀越え」と伝わる史実だが、近年、「堺から大和(奈良県)を経由したのでは」とする説が注目されている。

 生涯艱難(かんなん)の第一――。江戸幕府の公的な史書「徳川実紀」がそう記述する出来事は天正10(1582)年、本能寺の変を受けて起きた。

 同盟者の織田信長から安土城で接待された後、堺を見物中だった家康は変の報を聞き、領国に帰還すべく逃避行を開始。明智光秀の軍勢や武装した現地勢力による襲撃の危険にさらされ、一緒に堺にいた旧武田家家臣の穴山梅雪は途中で落命した。

 通説の伊賀越えのルートは、宇治田原(京都府)から信楽(滋賀県)、伊賀を経て、伊勢湾から海路で帰国したとするものだ。家康に同行していた大久保忠隣(ただちか)の次男、石川忠総(ただふさ)が記した「石川忠総留書(とめがき)」などに基づいている。

 これに対し、奈良県香芝市の歴史作家、上島(うえじま)秀友さん(68)は2年前、「本能寺の変 神君伊賀越えの真相」(奈良新聞社)を出版。大和経由説を提唱した。

 その根拠として、上島さんがまず挙げるのが、家康の孫で、大和郡山藩主だった松平忠明(ただあきら)の著ともされる「当代記」の記述だ。

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