「よりよい社会」と言うならば がん闘病中の勅使川原真衣さんの問い

有料記事ウェルビーイング・働き方

組織開発コンサルタント・勅使川原真衣
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Re:Ron連載「よりよい社会」と言うならば(第1回)

 またChatGPT(チャットGPT)の話かと、思われるかもしれないが、この原稿を書く前に私も「日本社会において、今こそ問い直しが必要なのはどのような課題でしょうか?」と(なぜか敬語で)聞いてみた。

 事実確認は別途要する内容だが、3秒ほどでそれっぽい体裁をした「こたえ」が出てきた。私たちはずいぶんと手軽なご意見番を得たのかもしれない。ちなみに先の問いへの回答はこう締めくくられていた。

 「これらは一部の問題であり…(略)…これらの問題に対処するためには、政策の改革や社会的な意識の変革が必要とされます」

 「だよね」。思わず口にしてしまう。

社会を良くしようとして、悪くなっていないか?

 同じようなことを感じている人は他にもいるようで、テレビである人が“どうしたらパートナーにも家事をしてもらえるか?”という相談をチャットGPTにしていた。その返答も「男女雇用機会均等法により…適切な家事の分担は…」うんぬんといわゆる正論そのもので、質問者も「うちの人に正論を言ってもなぁ…まいったな」などと頭をポリポリかいていた。

 チャットGPTはまだまだですね、なんて言いたいわけではもちろんない。この技術革新によって私たちは何となくでも、「わかる」という感覚を格段に得やすくなったとは言えそうだ。

 何より、ルール整備は待たれるにせよ、久々に大の大人たちがワクワクしている様子も新鮮だ。

 私はというと、教育社会学を修め、組織人事が専門で、AIはまさに門外漢……。だがそんな自分ですら、面白いことになってきたなぁと思う。

 同時に、今こそ、いろんな方々の経験や英知を持ち寄って、問い直してみたいと思うことが次々と浮かんでくる。

 いわば、「わかる」が「ファスト化」する今こそ、「立ち止まり」(Re:Ronのコンセプトのごとく)、「わかる」とは何か――もっと言えば、“私たちは、何をどうすることで「わかった」と思い、「わかった」上で、何をしようとしているのか?”――このくらい根源的なことも臆せず考えてみたい。

 ……と、その前に。視点のイメージがつくよう、私のバックグラウンドについてもう少しお話ししておいたほうがよさそうだ。私は修士課程で苅谷剛彦氏に師事して教育社会学を学び、「能力」という概念そのものや「能力主義」をいぶかしんできた。修了後はあえて、「能力」を巧みに商品化していく「人材開発」「能力開発」業界で経験を積んできた。そしてこのような思いが日々募った――

 こんなに競争を続けないといけない世の中。「よりよい社会」は名ばかりで、むしろ、よくしようとして悪くなっていないだろうか?

 ちなみに教育社会学と「人材・能力開発」業界の共通点は、「能力」というキーワードだけではない。両者ともに実は、

 ✔人が人のことを「わかる(理解・把握する)」とはどういうことか?

 ✔どう「分ける(分類・区分する)」ことが「わかる」ためには適切で、その結果いかに、限りある資源を「分け合って」生きるべきか?

といったことをテーマにしてきた。

 教育社会学的に言えば、「達成」「配分」の研究であり、企業の経営・組織論で言えば、「評価」「処遇」と呼ばれる分野の話だ。お金も土地も食料も、何もかも無尽蔵にあるならば、欲しがるだけみんなに大盤振る舞いしたいところだが、そうはいかない。もらいの多寡は生まれるものだ。

 よって、納得感の高そうな論理をこしらえて、個人を振り「分け」、それによってモノやカネを「分け合う」ことは、国にせよ企業にせよ、秩序形成に不可欠だ。

「わかる」と「分ける」と「分かち合う」

 そんなことを学び、また、企業とともに仕事にあたってきたため、私が「よりよい社会」とは? などと意気込む際には、「わかる」「分ける」「分け合う」の三拍子が密接に絡んでくるというわけだ。

 ところで、人が人のことを「わかる」ために「分ける」、という論理。これはいささか意外に思った方もいらっしゃるかもしれない。一説によると「わかる」の語源は「分ける」だとも言うが、詳しくは知らない。ただ確かに、「分類(分ける)」することで、その対象のえたいの知れなさが軽減する経験は、誰しもあるのではないだろうか。

 都心のど真ん中で、闇夜に電線の上を高速で移動する生き物を目撃したとする。ネコでもない、タヌキでもない、アライグマでもない。「え!? 今動いたのって何!?」と一瞬たじろぐのだが、「あぁ、あれはハクビシンだよ」と誰かに言ってもらえれば「なんだ、そうか」となる(ハクビシンなんて毎日見ているけど?という方は、初めてその生物が何かを知った日のことを浮かべるとよいかもしれない)。

 えたいの知れなさというのはいつだって不気味なものだが、「分ける」とがぜん、「分かった(把握できた)」感が生まれる。

 ただし、何でもかんでも「分ければ分かる」わけではない。「区分」「分別」のラベル次第では、「分かる」以上の展開も引き寄せる。

 例えば、先の話を「あぁ、あれはハクビシンという、害獣だよ害獣」と言ったらどうだろう。害獣と分類した間に、駆除という「排除」が許されることになろう。

 つまり、「分かる」ために「分けて」いく私たちだが、それは思いの外、「分断」と呼ばれる状態と地続きであるということだ。このことは頭の片隅にあってもよいはずだ。

 「よりよい社会」を目指そう! というのは掛け値なしにすばらしいことだ。だが、「わかる」とは案外、「分ける」ことと不可分だ。そしてさらに、どう「分け」られたかが、「分け合い」に多分に影響する。

 うまいこと多くの人々を笑顔…

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    中川文如
    (朝日新聞スポーツ部次長)
    2023年6月19日11時0分 投稿
    【視点】

    人が人のことを「わかる」ために「分ける」。なるほど。「わかる」と「分ける」って、コインの表裏のような関係なのかもしれないなあと、勅使川原真衣さんのご寄稿に感じました。で、ハタと考え込んでしまいました。 そもそも「わかる」って、いったい、何

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