大江健三郎が体現した戦後精神「ザイルで結び合う関係」 樋口陽一氏

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聞き手・大内悟史
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 戦後文学の旗手と呼ばれたノーベル賞作家の大江健三郎さんが88歳で世を去った。同世代で交流があった憲法学者の樋口陽一さんは、大江さんを「戦後日本の精神を誰よりも体現した知識人」と評する。大江さんが大切にしていたもの、大江さんを突き動かしていたものとは、何だったのか。樋口さんに聞いた。

 私は1934年9月生まれ。大江健三郎さんは翌35年1月生まれ。6・3制の戦後教育を初めて受けた学年です。

 学生時代のデビュー以来、「質量の塊」とも言うべき密度の高い小説や評論が年々蓄積されていくのをただ圧倒されながら読んでいました。

 大江さんを身近な存在として意識したのは、後年になって面識を得る前のことです。大江さんは79年5月25日付夕刊の朝日新聞文芸時評で、私と高校同期の劇作家、井上ひさしの作品を取り上げました。井上は「『流行作家』にはちがいない」が、『吉里吉里人』を完成させれば「いわゆる『純文学』の域を越えて、一九八〇年代の日本文学をうらなう仕事となろう」と高く評価しました。

 大江さんは2010年に亡くなった井上を追悼し、同年5月18日付朝日新聞連載「定義集」で大きな「崩壊感」を感じていると記しています。私も翌19日付紙面で「吸っている空気の質も量も違ってしまったような喪失感」があると語りました。

 互いに示し合わせたわけではない。大江さんは記事掲載後の私信で、あのとき3人は「出会った」のだ、と深い共感を示してくれました。

 じかに大江さんに接する機会を得るようになったのは、私が80年に仙台から東京に移ってからのことです。井上の芝居初日もそうした場の一つで、大江さんや辻井喬さん、加藤周一さんといった知的緊張を伴う親しさの輪の一員となる幸運に恵まれました。

 大江さんは偶然パリへの機内で隣席になっても、どちらからともなく食事のとき以外は互いの時間に侵入しない。節度を保った知的交流でした。

 戦後教育を受けた私たちの世代の体験は、例えば1学年上で旧制中学の知的水準を知る同郷の俳優、菅原文太さんと比べると決定的に違います。

 ところが大江さんは、はじめ…

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