第2回原発避難で体調崩した父、帰郷できず逝った母 「安住の地なかった」

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 今年3月11日。東京電力福島第一原発が立地する福島県双葉町の産業交流センターに設けられた献花台のそばに、73人の氏名が掲示されていた。東日本大震災の津波の犠牲者や、原発事故による避難生活で体調を崩すなどして亡くなり「災害関連死」と認定された町民のうち、遺族の了解が得られた人たちの名前だ。そこに、一組の夫婦の名が並んでいた。

 《穂積 吉久》

 《穂積 繁子》

 人望があり温厚な吉久さんと、おおらかな性格の繁子さん。二人は12年前、長男の憲一さん(71)夫婦と双葉町の内陸にある寺沢地区で暮らしていた。

 東京電力福島第一原発事故による避難生活で体調を崩すなどして亡くなり、医師らの審査を経て福島県内で「災害関連死」と認定された人は2335人。東日本大震災の地震や津波で亡くなった「直接死」(1605人)の1.5倍で、岩手県(470人)と宮城県(931人)と比べて桁違いの多さです。その背景と原発事故の実相に迫ります。

 車いす生活だった吉久さん(当時83)は、町内の施設でデイサービス中に被災。町全域に避難指示が出た2011年3月12日、施設の職員とともに北西の川俣町の体育館に避難した。

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