不本意だった部署で始めた「水どう」 ディレクター語る「仕事とは」

有料記事

聞き手・角拓哉
[PR]

笑ってる場合かヒゲ」特別編インタビュー(前編)

 HTB北海道テレビの名物ディレクター、藤村忠寿さん(57)が朝日新聞北海道版に連載しているコラム「笑ってる場合かヒゲ」がついに10年目に突入します。藤村さんは北海道から全国に人気を広げた「水曜どうでしょう」(1996~2002年に定期放送、その後特別番組などを放送)のディレクター。さらに一会社員の枠を超え、役者、ユーチューバー、ラジオパーソナリティーとしても活躍しています。多忙な中執筆するコラムは、身の回りの出来事を独自の視点で捉える「水曜どうでしょう的思考」が柱。コラム原稿のやり取りをする記者は今回、インタビューの機会に恵まれました。そして、かねて聞いてみたかった質問をぶつけてみました。藤村さんにとって仕事って何ですか? そして本当に会社員なんですか?

実は報道部志望だった

 ――活動の枠がテレビにとどまらない藤村さんの仕事観とは。

 「僕が社会人になったのがちょうど1990年。そのころの日本って、いい給料の会社に勤めることが大切にされていたと思うんです。僕は入社してすぐに家庭を持ち、いきなり東京支社に行きました。元々報道部志望だったけど、配属されたのは希望していない編成業務部。面白いと思ったことは一度もなかったけど、お金は稼がないといけないし、東京に暮らしているうちに『東京っていいな』って思うようになりました。結局20代はやりたくない仕事で終わっちゃって、札幌市の本社に来たときには30歳になっていました。配属先は制作部。また希望していない部署でした。で、31歳で『水曜どうでしょう』を始めるんです。なんで希望したものをやらせてくれなかったんだろう、そしたら俺、自分なりに結果を残していた気がするんだけどって今でも思うんですけどね」

 「でも、この時初めて自分がやりたいこと、これなら勝負できるんじゃないかっていうものに出会えたんです。37歳まで6年間ずっとレギュラー放送続けた中で、やりたいこと、自分が得意なことをようやく見つけられて、自分が入りこむことができた。そこからですね、仕事を仕事と思わなくなったのは。『お金稼ぐためにやる』って考え方が変わった。それが今もずっと続いています」

 「流れに身を任せることも大切だと思うんです。制作部も希望していなかったけど、来てみて番組つくることになったら、こういうことできるなってことが自分の中に芽生えてきた。もし20代のころ、報道に行ってたら力を発揮できたと思う半面、実際どうだったのかって思います。分かってきたのは、自分が希望していなかったところでも、自分の周りの環境は変えていくことができるということ。20代のころは、イヤなものは変えていこうという思考にはならなかった。経験がなかったし、どう変えていいのかわからなかった。30代になると、自分でやり方を変えられることが分かってきた」

 「『どうでしょう』は、自分がやりやすく、面白いと思う方向に変えていくことができました。だから、何かにあらがうというより状況のなかで自分自身が周囲を変えていくことが大切なのではないかと思います。大きく変える必要なんてありません。会社全体とかじゃなくて、自分のやる仕事の周囲を変えていくと、わりと住み心地がよくなるんですね」

活動を広げたわけ

 ――役者や動画配信のYouTube(ユーチューブ)、ラジオなどをやろうとしたきっかけは。

 「やりたいと思ったから(笑…

この記事は有料記事です。残り2639文字有料会員になると続きをお読みいただけます。

【春トクキャンペーン】有料記事読み放題!スタンダードコースが今なら2カ月間月額100円!詳しくはこちら