内灘闘争70年 おかかと座り込んだ女性歌人の歌碑、内灘に建立

小島弘之
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 反米軍基地運動の先駆けとされる「内灘闘争」から今年で70年。闘争当時、地元のおかか(女性)らとともに座り込み抗議に参加した歌人・芦田高子(1907~79)の歌碑がこのほど、石川県内灘町に建立された。

 内灘闘争は52年秋、内灘村(当時)で米軍砲弾試射場建設による土地接収問題が降ってわいたことに始まる。サンフランシスコ平和条約が発効し、日本が独立を回復した直後だった。

 翌53年に、砂丘に試射場が造られると、半農半漁で生計を立てる村民は、生活の場が奪われる、と猛反対。抗議の座り込み小屋には、子どもや老人、乳飲み子を抱えた女性の姿もあった。

 当時、金沢市内に暮らしていた芦田は内灘を訪れ、現場の情景や社会の空気感、抗議する村民らの思いを短歌に残した。

 鉄かぶとにむしゃぶる漁夫おかかたち村思うこころ唯(ただ)に一途に

 母のまろ乳唇にふくみて何知らぬ嬰児(みどりご)も坐(ざ)せり母の意のままに

 日本の体内へつたへ独立と平和の高き鼓動内灘

 芦田の長男・星野尚美さん=東京都練馬区=らが、座り込みの拠点だった「権現森」に建立した歌碑には、この3首が刻まれた。

 歌碑の除幕式は22日に開かれ、川口克則町長や町民らが参列。闘争に詳しい西尾雄次町議(74)は「歳月の流れのなかで消えていく記憶が、記録として残され、後世に伝えられる貴重なもの」とし、中学3年生の頃に闘争に参加していた大丸文枝さん(84)=内灘町=は「闘争を知る人がほとんどいなくなった今、歌碑を通し、こんな出来事があったということを知ってほしい」と話した。

 芦田は岡山県生まれ。43年に石川県鳥屋町(現中能登町)に移り住み、その後、金沢市へ。54年には内灘闘争をうたった歌集「内灘」を発表した。長男の星野さんは「母は右も左もない人だったが、根本的には、社会のあるべき姿をずっと求めていた。今回、内灘のおかかたちの顕彰をさせていただくことができて感慨深い」と語っていた。(小島弘之)

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