第23回シルクロードに日本が見た夢は蜃気楼だったか 恐ろしさと残る希望と
中国と西洋をつなぐシルクロードは古くから、日本人のあこがれを集めてきました。戦後は1972年の日中国交正常化を経て訪ねやすくなり、80年代には空前のブームがわき起こりました。それが今、少数民族への人権弾圧を想起させる場所に転じています。日本人が熱狂したシルクロードとは何だったのか。「『敦煌』と日本人―シルクロードにたどる戦後の日中関係」の著者、中央大学教授の榎本泰子さんにききました。
榎本泰子さん
1968年生まれ。中央大学文学部教授。専門は中国近代文化史・比較文化。著書に「『敦煌』と日本人―シルクロードにたどる戦後の日中関係」のほか、「楽人の都・上海」「上海オーケストラ物語」「上海―多国籍都市の百年」「宮崎滔(とう)天」など。
――日本人は古くから仏教を通じて西域へのあこがれを持っていたと思います。現代においては、シルクロードに何を投影してきたのでしょうか。
日本人は20世紀を通じて、西はローマへと至る古代シルクロードの、東の終着点は奈良だと誇りに思ってきました。中東や欧州など西方世界と日本を文化的につなぐロマンあふれる道と認識されていたと思います。
ただ、戦後は日本人の心の地図の中で、国交のない中国大陸は空白となったままでした。日中国交正常化前の1964年に開かれた東京五輪でも、聖火をシルクロードに沿ってリレーする計画がありましたが、果たせませんでした。
日本の国際化が進み、生活も欧米化するなかで、同時代の中国に対する情報や知識は欠けていました。だからこそ、国交正常化を経て80年代の大ブームにつながりました。
知らないがゆえに、あこがれた 周辺と世界を結ぶ道
――知らないがゆえの好奇心とあこがれだったのですね。私は1964年生まれですが、80年に番組が始まったNHKのドキュメンタリー番組「シルクロード」をわくわくしながら見ていました。
たとえば、敦煌という地名を…
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