島鳥ひとひと 八雲記念館コーディネーター 小泉祥子さん

木元健二
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 【島根】文豪の、自然への畏怖(いふ)の念はひときわ強かったという。蜻蛉(とんぼ)、蟬(せみ)、蝶(ちょう)、蚕といった多彩な虫をテーマに多くの作品を描いた小泉八雲(1850―1904)。松江市の小泉八雲記念館コーディネーターとして、そんな感受性に光をあてた。

 企画した「虫の詩―かそけきものの声音を愛す」では約100点が並び、実際に鈴虫や松虫などを飼っていた竹細工の虫かごもある。〈やがて死ぬけしきは見えず蟬の声〉。こうした芭蕉の俳句のように、八雲は日本で虫が文芸作品の題材になっていることに、いたく共鳴していたという。

 「小さな生命体に、筆一本で生きようとする自分の影を重ねていました」

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 例年、趣旨様々の企画展のコーディネートに取り組んできた。代表作「怪談」や、アイルランドやニューオーリンズといった八雲の足跡にちなんだ展示も開いてきた。100年以上前に没した作家だが、作品や足跡から普遍性を見いだし、現代の世相と切り結ぶことを心がけてきた。

 たとえば、小さな虫の鳴き声に耳を傾けることで、懐かしく、かつ新鮮な感覚を得ることもできる、とみる。そのこころは?

 「ネット社会になり、仮想現実といった、手触り、肌触りから、ほど遠い感覚が広がっている。コロナ禍で人と会う機会も減った。八雲の重んじた『五感』の大切さに思いを致していただければ」

 地元出身で、八雲のことは身近には感じていたが、詳しくは知らなかった。20代後半のとき、東京からIターンした八雲のひ孫で民俗学者の凡さんと出会う。専業主婦だったが、子育てが一段落した40代半ば、一念発起し、八雲の足跡を伝える活動へ。

 「オープンマインド」と呼ばれる、違う国の文化に偏見なく接する視点が八雲の特長。明治の日本社会に寄せた共感のまなざしがあればこそ、見落とされがちな市井の記録が残された。

 だから、松江でセツと出会い、結ばれたのも、自然な流れだったのだろう。「怪談」も伝承を伝える妻の支えあってこそ、世に出せたのだ。

 そもそも両親の愛情に恵まれず、左目は少年期に失明し、貧しさも病も経験した。苦難を忘れることはなく、後年ジャーナリストになり、立場の弱い人に共感する姿勢は一貫していた。「著作も多彩で切り口がいくらでもあり、企画案にはことかかない人物です」

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 「虫の声音」の機微を探るなかで、「セミの種類を尋ねると、鳴き声をまねられるほど」昆虫好きの凡さんの助言が効いた。

 ふと気づいたことがある。セツが八雲の声を女性的、と伝えているように、凡さんの声も少し高く、やわらかい。コロナ禍で過ごしがちな中、夫の背景に八雲がほの見えることがある。「子どもも独立し、夫婦2人の時間が増えました。小さな発見がいとおしくなっています」

 目指すのは、変わらず現代人の心に八雲の作品世界を映し出す案内人。秋の声音を聴きながら、開く心に次を問う。(木元健二)

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 こいずみ・しょうこ 1960年生まれ。旧宍道町(現・松江市)で育ち、幼稚園の教員を経て、89年に凡さんと結婚。コロナ禍がひろがってからは、山歩きが趣味になった。「ただし低山専門です」

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