アントニオ猪木さんが心不全で死去 元プロレスラー、各国首脳と交友

 「燃える闘魂」のうたい文句で人気を集めた元プロレスラーでスポーツ平和党党首や参院議員を務めたアントニオ猪木(本名・猪木寛至〈いのき・かんじ〉)さんが1日午前7時40分、心不全のため自宅で死去した。79歳だった。

 横浜市出身。10代前半で、一家でブラジルへ移住。コーヒー豆などの農場で働きながら砲丸投げや円盤投げに熱中し、17歳でブラジルの全国大会で優勝した。このとき、遠征で訪れていた力道山さんにスカウトされて帰国。日本プロレスに入り、1960年9月、デビューした。

 元プロ野球巨人の投手で同期のジャイアント馬場さんが早くから海外遠征などをしたのに対し、猪木さんは力道山さんの付け人として力をつけた。63年に力道山さんが暴漢に刺されて亡くなった後、馬場さんとともに団体のエースとして人気を集めた。

 72年に新日本プロレスを設立し、同じころに設立された馬場さんの全日本プロレスとの2団体によるプロレス黄金時代を築く。「過激なプロレス」を掲げ、藤波辰爾(たつみ)さんや長州力さん、タイガーマスク、前田日明(あきら)さんら若手を育成。76年にプロボクシング世界王者のモハメド・アリさんと対戦するなど、様々な異種格闘技戦も行った。

 89年、スポーツ平和党を結成して参院選比例区に立候補。「国会に卍(まんじ)固め、消費税に延髄斬(ぎ)り」と訴えて当選した。議員時代は湾岸戦争前、フセイン政権下のイラクで人質となった邦人の解放を実らせた。「アリと闘った男」の知名度を生かし、ロシアのエリツィン大統領やキューバのカストロ国家評議会議長ら各国首脳とも交友を深めた。

 95年の参院選で落選し、98年の試合を最後にレスラーを引退。その後は総合格闘技のプロデュースをしたり、新たなプロレス団体を興したりして格闘技界を支えた。2013年に日本維新の会から参院選に再出馬し、18年ぶりに国政復帰。たびたび北朝鮮を訪れ、国交正常化を模索した。

 右手を突き上げる勝利の決めポーズ「1、2、3、ダーッ」や「闘魂注入ビンタ」「元気ですかーっ」などのパフォーマンスはプロレスファン以外にも人気だった。

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    常見陽平
    (千葉商科大学准教授・働き方評論家)
    2022年10月1日12時23分 投稿
    【解説】

    ■「闘魂は連鎖する」  「我々は今日をもって猪木から自立しなければならない。闘魂のかけらを携えて、今度は我々が旅に出る番だ。闘魂は連鎖する。」  1998年4月4日、アントニオ猪木引退試合での古舘伊知郎によるスピーチより。この言葉を今こ

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    佐藤優
    (作家・元外務省主任分析官)
    2022年10月1日14時0分 投稿
    【視点】

     アントニオ猪木(猪木寛至)氏には外交官時代にとてもお世話になりました(作家になってからも何度か一緒に食事をしました)。猪木氏はソ連時代末期から頻繁にモスクワを訪れるようになり、大使館ではいつも私がアテンド係でした。ソ連では国営スポーツ・シ

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