困難な時代を走り抜いた海王丸、引退後も魅力を発信
富山県射水市の伏木富山港。大型の客船や貨物船などが集まる北陸唯一の国際拠点港湾だ。その一角の公園に、高さ46メートルの巨大な帆船「海王丸」がある。
戦前の1930年(昭和5年)に建造。4本のマストに付く29枚の帆をすべて広げると約2050平方メートル(約1250畳分)に及ぶ。その美しさから「海の貴婦人」と称された。
商船学校の練習船として使われたが、戦時中は船体をねずみ色に塗り替えての石炭輸送、終戦後は海外に残った邦人の帰還輸送に3年半ほど使われ、約2万7千人を運んだ。
55年に船体が白く塗り替えられて現在の姿となり、89年までの59年間使われた。地球約50周分を航海し、実習生約1万1千人が巣立ったという。引退の翌90年から同港で一般公開された。
記者(25)が海王丸を訪ねたのには理由がある。巣立った実習生の一人が、57年に航海した私の祖父(84)なのだ。
祖父は船舶機関士として世界中を航海した。南太平洋の島で「人食い人種」に襲われた話、洋上でインド人に振る舞われた激辛カレーで腹を下した話など真偽は不明だが、数々の逸話を聞いて育った。船乗りの原点となった海王丸はどんな船なのか、一度見たかった。
船を管理する伏木富山港・海王丸財団の達見和記(かずのり)さん(37)に案内してもらった。達見さんは航海士で、実習船として現役の2代目海王丸の教官を努めたこともあり、新旧の海王丸を知り尽くす。
全長97メートルの船体の広いデッキに立つと、実習生の気分になれる。今にも風に乗って大海原に向けてかじを進めたくなる。
デッキにはかつての様子がパネルで展示されている。デッキ上で洗濯をしている写真を見て、洋上での水事情が気になった。
祖父が乗った頃、入浴の時は海水が入ったおけにつかり、バケツ1杯の真水で洗い流すだけで、実習生の多くが皮膚病になっていた苦労話を聞いた。そのため、スコールが降ればせっけんを持ってデッキに上がり、体を洗った人もいたという。
達見さんが乗った頃は、真水のシャワーが使えたという。しかし、洋上での水は現在でも貴重なため、節水のために体と顔と頭の順で洗い、一気に流す方法は船乗りの基本だという。
海王丸の部屋は乗船口から2フロア下にあり、祖父が使った13号室を見せてもらった。広さ6畳、高さ2・4メートルほどの狭い部屋に2段ベッドが四つ。ベッドの長さは170センチほどで、今の20歳男性(平均170・2センチ)にとっては窮屈そうだ。ここで実習生がどんな会話をしていたのだろうと想像が膨らむ。
ただ、ベッドの上には枕や毛布があり、妙な生活感があるのが気になった。聞くと、近隣の小学生が学校行事の「海洋教室」として使っているのだという。コロナ前の19年は約1200人が参加した。
教室では、児童たちはマストに登って帆を広げ、ヤシの実で床を磨く。食堂でカレーなどを食べ、部屋で1泊する。船に親しみを持ってもらうことが目的だ。
現在、日本の船乗りは人員不足が深刻化している。
国土交通省海事局によると、日本国籍の船員(貨物、旅客船)は、ピーク時の1974年には約12万8千人いたが、20年は約3万1千人と約4分の1に減ったという。達見さんは「陸上交通網の発達で、船の大切さに気づきにくくなっているのでは」と分析する。
普段、何げなく使う電気でも、燃料となる石炭や石油、天然ガスを海外から運んでくる船がある。そうした存在まで見えなくなっているのではないかと達見さんは懸念する。
教室を通じて、できれば船乗りを志して欲しいと達見さんは願うが、「海で働いている人がいることを認識してもらえるだけでもいい」と話す。
以前、2代目の海王丸で教官として指導していたとき、富山出身の実習生から、船乗りになった動機を「海洋教室が楽しかったから」と聞いた。「小さい頃から海に親しみを持って船乗りになりたいと思ってもらえるのは最高です」
祖父が青春時代を過ごした海王丸は、動かなくなった今も若者たちに大海への夢を与え続けている。