第11回「対中ODA、幕の引き方は非常に残念」 谷野作太郎・元中国大使
日本の中国に対する途上国援助(ODA)が、国交正常化50年の今年で幕を閉じた。中国の経済発展を支えつつ、様々な形で意義が問われた対中ODA。外交の現場で関わってきた谷野作太郎・元中国大使(86)に聞いた。
連載「日中国交正常化50年 外交記録は語る」(全13回)
日中国交正常化から9月29日で50周年を迎える。この間、さまざまな政治家や官僚らの往来があり、日中関係には紆余曲折があった。1970年代末から90年代初めにかけてを外交記録から読み解く(敬称略)。
――谷野さんが外務省アジア局で中国課長だった頃の1979年12月に大平正芳首相が訪中し、第1次円借款でインフラ建設を支援するなどの対中ODAが始まりました。中国は社会主義経済に資本主義を取り入れる改革開放路線にかじを切っていました。
実権を握った鄧小平がせっかく始めた改革開放を、官民挙げて支援する。とげとげしく孤立し、東南アジアで革命をあおるような毛沢東時代に中国を戻さず、開かれたわかりやすい近隣の大国として確保する。それが日本、アジア、世界の政治、経済のためになるという思いでした。でも、肝心の外務省は有田圭輔事務次官とアジア局以外は反対・慎重論が大勢でしたね。
通産省や経済界は中国市場をということもあって熱心で、欧米はそんな日本への猜疑心(さいぎしん)があった。対中円借款事業を日本企業が受注する「ひも付き」にするかどうかでかなりもめて、大平首相のご決断で、日米欧が参加するOECD(経済協力開発機構)のルールに沿って原則ひも付きなしの「アンタイド」にしました。
自民党でもつるし上げられま…
- 【視点】
大変面白いインタビューでした。読後に覚えてしまう隔靴掻痒の感を含めて、日中国交正常化後の50年間の日中関係の問題点を炙り出す記事です。 すでに肌感覚としては忘れられて久しい話ですが、国交正常化期から1990年代前半ごろまで、日本側の日
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