「引退」ではない 芸術と豊かに連なる領域へ 羽生選手の会見に思う

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編集委員・吉田純子

 引退ではなく、挑戦。19日に開かれた記者会見で、羽生結弦選手が放ったこの言葉は、勝ち負けを競うというフィールドを卒業し、スポーツと芸術の未知なる接点を探る新たな人生に一歩を踏み出すという宣言のように、私には響いた。

 スポーツと芸術の境界は、一体どこにあるのか。深く掘り下げたら、実は同じ本質に行き当たるのではないか――。音楽とダンスの現場を長く担当するうちに、私自身、おのずとそんなことを思索するようになっていた。

 とりわけフィギュアスケートとバレエの関係については、よく考えてしまう。どれほどの精度で、高く、美しく滞空し、より多く回転するか。似たような質の関心を向けられるにもかかわらず、片や競技、片や芸術という風にごく自然にカテゴライズされてしまっていることに、何とも言えないモヤモヤを感じずにいられない。

 今回のように、数値によって比較される競技の世界を生きてきた人が、技術を「表現」として突き詰めるという信念を語るのを、私はこれまで聞いたことがなかったと思う。むしろ、あくまで順位を競うスポーツと、表現の多様性こそが肝要である芸術は、究極的に相いれないものなのかもしれないと思っていた。

 しかし、芸術と同様にスポーツにとっても、本質的には技術は表現の一部であり、勝ち負けの世界へと自らを追い込むことも、まだ誰も見ていない究極の景色を見るためのプロセスのひとつにすぎないのかもしれないと、羽生選手の語る一言一言をかみしめながら考えた。肉体は衰えるもの。私たちはそう思い込んでいるが、年輪を重ねるとともに研ぎ澄まされてゆく技術というものも、実はあったりするのではないか。

 スポーツに限界はあるが、芸術に限界はない。何より、そんな一面的な思い込みに、ほかでもない私自身がとらわれていたのではないか――。

 伝説のバレエダンサーと呼ば…

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