赤岩の渡し 県内唯一の利根川の渡し船

柳沼広幸
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 利根川(322キロ)のほぼ真ん中にある群馬県千代田町赤岩では、対岸の埼玉県熊谷市に人や自転車を運ぶ渡し船が運行されている。「赤岩の渡し」だ。水運で栄えた赤岩の風情は時代とともに変わったが、今も橋はない。4月に伊勢崎市の「島村の渡し」が廃止されたため、県内で唯一の利根川の渡し船となった。

 「うわー、気持ちいい」。6月中旬、20人乗りの動力船「新千代田丸」に乗った。赤岩の船着き場を離れると、すぐに女性客の歓声が上がった。川風が心地いい。対岸までは約400メートル。浅瀬を避けながら5分ほどで熊谷市に着いた。

 「思いがけず船に乗れ、感動した」。太田市から来た女性2人は船頭との会話で笑いっぱなし。「小さな船旅」を楽しんだ。

 時代遅れのような渡し船は主要地方道「熊谷・館林線」の橋の代わりで、群馬県が千代田町に委託して船を運航する。「橋」だから対岸に渡りたい人は誰でも無料で乗れ、自転車とバイクも運べる。「遊覧船ではありません」の表示もある。

 熊谷市側から渡る時は、船着き場近くにある黄色い旗を揚げると、赤岩側に待機する船頭が迎えに来る。年中無休だが、台風などで運航できないときは、赤岩側に赤い旗が掲げられる。

 晴れた日は赤城山榛名山浅間山が望める。坂東太郎の別名もある利根川には危険もある。各地に甚大な被害をもたらした2019年10月の台風19号では船頭が待機する小屋が流され、復旧に1週間ほどかかった。船頭11年目の奈良均さん(69)は「慣れないと着岸が難しい。群馬県側は浅瀬があるので気をつかう」。船着き場には館林市熊谷駅に向かうバス停もあり、街にも行ける。

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 利根川で有数の河岸(かし)として栄えた赤岩は、小説や絵画などの芸術で魅力が伝えられてきた。館林市史編さんセンターの井坂優斗さん(28)によると、明治の文豪・田山花袋(かたい)が赤岩の景観を気に入り、作品で魅力を伝えたことで、後に続く作家らに影響を与えたという。

 「帆は徐(しず)かに霞(かすみ)の中から生まれてそしてまた霞の中に消えて行つた。疎(まば)らな樹の栽ゑられた旅舎の庭にも、いつとなく春が来て、沈丁花が咲き、椿(つばき)が咲き、……」

 花袋には赤岩の旅館「新田家」を舞台にした「河ぞひの春」という作品もある。新田家は当時、にぎわう船着き場の前にあったが昭和の堤防整備で離れた場所に移転した。花袋ゆかりの店は、ウナギ料理などの割烹(かっぽう)店としていまも続く。

 「河そひの土手のたんほほすみれ草はるいろいろにさかえゆくらん」

 店には花袋の書や漢詩がある。5代目の増田和夫さん(74)は「当主が書をお願いすると、気安く書いてくれたそうです」。花袋が通ったころから100年ほど経つのに、文学好きなどが店を訪ねてくる。「花袋さんのおかげ。今も恩恵を受けています」

 近くの光恩寺には、日本初の公認女性医師、荻野吟子(1851~1913)の立像と生家の長屋門が移築されている。熊谷市俵瀬の名主の家の生まれで、荻野家の跡地には記念館がある。双方を行き来するのに、渡し船はちょうどよい。

 町を歩くと「利根川に新橋を」と書かれたのぼりがはためく。自治体や住民は県に橋を架けるよう要望している。橋が架かれば、「赤岩の渡し」は歴史の幕を閉じるかもしれない。

 「役目を終えたとしても、唯一の渡し船なら観光などに活用してほしい」

 増田さんは、赤岩の渡しが続くことを願っている。(柳沼広幸)

 〈赤岩の渡し〉 戦国大名上杉謙信は舟をつないだ「船橋」で武士団に川を渡らせたとされる。江戸期は年貢米や絹織物などを江戸に運ぶ水運が盛んで、赤岩には120隻もの舟があったという。明治期は富岡製糸場の生糸を江戸川から横浜まで運んだが、鉄道の開通で衰退した。千代田町によると、2020年度の赤岩渡船の利用者は徒歩1万1097人、自転車3445台、バイク66台。欠航は17日。船頭3人が交代で運航している。4~9月は午前8時半~午後5時、10~3月は午後4時半まで。

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