光を浴びたあの日から「私は3度、被爆者になった」 世界への訴え
核兵器禁止条約の第1回締約国会議が、ウィーンで21日(日本時間同日夕方)に始まる。前日の20日、オーストリア政府主催で核兵器の「非人道性」をテーマにした国際会議があり、長崎原爆の被爆者が「人間らしく生きることも許されない」とスピーチした。
「あの日、あのとき。私は光を浴びた」
木戸季市(すえいち)さん(82)=岐阜市=が、約80カ国・地域の代表を前に語り始めた。
77年前の1945年8月9日、長崎市。5歳だった。爆心地から南に2キロほどのところにいた。
配給に向かう母を追いかけ、自宅を出た。飛行機の音が聞こえ、空を見上げた。ピカッと光ったかと思うと、ドーンという音が響く。20メートル吹き飛ばされ、気を失った。
目覚めると、顔の左半分が熱かった。母も顔にやけどをしていた。2人で山の斜面を掘っただけの防空壕(ごう)へ逃げ込んだ。うめき声があちこちから聞こえてきた。
光がもたらしたのは「死」だった。壇上で声を詰まらせながら、木戸さんは訴えた。「『幸せな人生をありがとう』とか、別れを告げることができない。どんな人生を歩んだか残すことができない。このような死が人間の死として認められるでしょうか」。核兵器を「人権と共存できない非人道的な絶対悪」とも表現した。
私は3度、被爆者になった――。木戸さんがよく口にする言葉だ。
最初は実際の被爆。2度目は、あの日の写真を見たときだ。
終戦後、原爆関連の報道は連…
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- 【視点】
太平洋地域では、マーシャル諸島、仏領ポリネシア、オーストラリアの砂漠地帯や島が、それぞれ米国、フランス、英国が核実験の場所にされ、被爆した悲しい過去があります。これらの地域のヒバクシャたちは、日本の被爆者たちとも交流を重ねてきました。
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