木津川左岸の古墳群「綴喜古墳群」として国史跡へ 文化審答申

才本淳子 甲斐俊作

 国の文化審議会は17日、木津川左岸にある国史跡「大住車塚(おおすみくるまづか)古墳」(京田辺市)に加えて周辺に点在する3カ所の古墳をまとめ、「綴喜(つづき)古墳群」(京都府京田辺市・八幡市)として追加指定するよう文部科学相に答申した。4世紀に造営されたものとされ、当時の政治的動向や首長墓の築造実態を知るために重要な古墳群だという。

 新たにひとつの古墳群となるのは大住車塚古墳、「八幡西車塚(やわたにしくるまづか)古墳」(八幡市)、「飯岡車塚(いのおかくるまづか)古墳」(京田辺市)、「天理山古墳群」(同)の4カ所。前方後円墳4基、前方後方墳2基の計6基がある。位置と構成、地形の特徴などから、ひとまとまりだと考えられるという。

 昨年、京田辺市が行った発掘調査で天理山古墳群が前方後円墳と前方後方墳で構成されることが判明。府教委の担当者は「点を面としてとらえることができるようになった」と話す。

 古墳研究第一人者の和田晴吾・兵庫県立考古博物館長は「綴喜古墳群は、交通の要所である木津川とともに発展した勢力のものだろう。大和王権が国内政策に力を入れた時期と重なり、地方の有力者と中央との関係性もみえてくる重要な古墳だ」と話す。

 周辺には他にも古墳群があり、府や各市教委は、追加指定を目指しており、古墳群の保存と活用を図りたい考えだ。

 審議会は他に、奈良時代に聖武天皇が740年から3年余り、都を置いた恭仁(くに)宮の宮殿「恭仁宮跡(くにきゅうせき)」(京都府木津川市、国史跡)の、宮を囲んでいる築地塀のうち、南辺にあたる範囲を追加指定するよう答申。また、平安京の宮殿だった国史跡「平安宮跡」(京都市中京区)のうち、国家的饗宴(きょうえん)が催された豊楽院(ぶらくいん)の後殿「清暑堂」の一部も追加指定するよう答申した。(才本淳子)

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 綴喜古墳群を構成する天理山古墳群は、すべて円墳だと考えられてきた。だが昨年、前方後円墳があることが確認されて事態が急転した。京田辺市は宅地開発予定地だった一帯を購入し、保存に踏み切った。

 かつて一帯はほとんどが民有地で、開発が進んでいた。2007年、NPO法人「一休酬恩会」が景観保全の署名運動を展開し、その後裏山の購入資金を募るナショナル・トラスト運動も起きたが、運動は事実上失敗。隣接する一休寺は開発業者から境界の山林を購入するなどしていた。

 古墳群の保存で、国指定の名勝でもある一休寺庭園からの景観も保全されることになった。田辺宗一住職(73)は、「古墳群の保存・活用が市の環境や教育、観光にもいかされることを願っている」と話す。

 市は史跡指定後は、専門家を入れた組織をつくり、史跡広場として整備する方針だ。(甲斐俊作)…

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