「知床旅情」に加わった新たな意味 加藤登紀子さんが語る観光船事故

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聞き手・大滝哲彰
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 知床の岬に はまなすの咲く頃――。加藤登紀子さんが歌い、大ヒットした「知床旅情」。1970年代、都会に出てきた若者たちの多くが、この曲を聴いては望郷の念に駆られた。

 そんな曲の舞台となった知床の地で起きた観光船の事故。加藤さんが事故や知床への思い、そして「知床旅情」のこれからについて語ってくれた。

     ◇

 事故を受けて、まず思い出したのは、1959年に80人を超える死者・行方不明者が出た知床半島・羅臼での漁船の遭難事故です。

 当時は東西冷戦中で「鉄のカーテン」の時代。「風が吹いたらクナシリ(国後島)に逃げろ」と昔から言われていたのに、強烈な風が吹いて海が荒れる中、羅臼港に帰ろうとして事故に遭いました。船は、クナシリに逃げてソ連に拿捕(だほ)されることを恐れたのです。

 この理不尽な悲劇を受け、森繁久彌さん(2009年、96歳で死去)が知床のために動きました。

 真冬の知床半島で漁師が集まる「番屋」に暮らす老人を描いた映画「地の涯(はて)に生きるもの」を、私財をはたいて自主制作しました。地元民の惜しみない協力に感激した森繁さんが、そのロケの置き土産として「知床旅情」を作詞作曲したのです。

 今回の観光船事故は、無謀な出航のすえにたくさんの方々が犠牲になりました。私は、厳しい自然と向き合って生き抜いてきた知床の人たちは、船を出すことにとても慎重だと感じてきました。だからこそ残念でなりません。

「君の声はあの風の冷たさを知っている声だね」 森繁久彌さんは言った

 「知床旅情」との出会いは68年3月でした。後に夫となる藤本敏夫さん(02年、58歳で死去)と初めて一緒にお酒を飲んだ日。東京・千駄ケ谷のマンションまで送ってくれて、別れるのが寂しくなった2人は、屋上に行きました。彼が夜空の下で朗々と歌ってくれたのが、この曲でした。

 その1年後、私が「ひとり寝の子守唄」を歌った弾き語りのステージを森繁さんが見てくれていました。

 舞台袖で「僕と同じ心で歌う人を見つけたよ」と言って抱きしめて下さった。この出会いから、私が「知床旅情」を歌うことになります。

 私は戦中、森繁さんがアナウ…

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