「鎌倉殿の13人」登場の木曽義仲はどこまで逃げた? 落人伝説探る

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編集委員・小泉信一
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 平安末期、絶世を極めていた平家を都から追放した猛将・木曽(源)義仲(よしなか、1154~84)。NHK大河ドラマにも登場した義仲や側近らにまつわる伝説に焦点をあてた企画展が、群馬県中之条町で開かれている。挙兵の際に使ったと伝わる矢筒など義仲に仕えた一族の子孫宅に伝わる貴重な史料が展示されている。

 義仲は清和源氏の嫡流(ちゃくりゅう)・源為義(ためよし)の次子義賢(よしかた)の次男。義賢が討ち死にし、孤児となるが、信濃の豪族がかくまったといわれる。

 一方、企画展を主催した中之条町歴史と民俗の博物館「ミュゼ」の山口通喜館長は語る。「義仲には幼少期、信濃から落ち延び、深い山々に囲まれた旧六合(くに)村入山の世立地区(現在の中之条町)の首領に預けられたという言い伝えがある」

 義仲は1180年、以仁王(もちひとおう)により平氏討伐の令旨(りょうじ)が発せられたため挙兵。83年には平維盛(これもり)の大軍を倶利伽羅(くりから)峠(現在の富山、石川県境)で破るなどして平氏を京から追い払い「旭(朝日)将軍」と呼ばれた。

 だが、都における義仲軍の粗野な行動が後白河法皇らの反感を買い、源頼朝が派遣した源範頼・義経軍に京を追われた。翌84年、琵琶湖畔を敗走していたところ流れ矢にあたり戦死。享年31と伝えられている。

 今回の企画展は「木曽義仲落人伝説~旭将軍義仲と鎌倉殿頼朝が残したもの~」と題し、義仲にまつわる伝承を取り上げた。山口館長は「伝承をつなぎ合わせることで、おぼろげながらも『史実』が見えてくるのではないか」と語る。

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