席を立たれたダンサーに聞いて考えた 「頑張ってるのに失礼」なのか

有料記事多事奏論

論説委員・田玉恵美
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記者コラム「多事奏論」拡大版 田玉恵美

 満足いかない記事を出して悔やんでいたとき、能天気な同僚に「でもまあ、よく頑張ったんじゃない?」と言われたことがある。子どもだましの気休めに感じ、気分はさらに沈んだ。私が頑張ったかどうかなんて、読者には関係ないじゃないか。

 そんなこともあって「頑張る」という言葉には少し身構えてしまうのだが、この夏はとりわけ複雑な気分になった。「選手は頑張っている」と五輪開催を擁護する声をよく聞いたからだ。たしかに頑張っているのだろうが、競技を見ていても、国際オリンピック委員会(IOC)や政府、組織委員会の無責任な言動や、競技場の外にある感染拡大の現実がどうしても思い浮かぶ。アスリートの頑張りは、運営の不手際の免罪符にはなるまい。これまでの大会は特に疑問も持たずにテレビ観戦していたが、今回はどうにも楽しめなかった。

 選手たちの「応援よろしくお願いします」というせりふも気まずい思いで聞いていたところ、ハタと思い出した。かくいう自分にも、「頑張っているのに失礼だ!」と憤った経験があったことを。

 2011年の冬、私は旅先のパリで国立シャイヨー劇場にいた。巨匠ウィリアム・フォーサイスが手がけたコンテンポラリーダンスの新作公演を見ようと誘われ、フォーサイスが何者かも知らぬまま、お上りさんよろしくノコノコ出かけていったのだ。

 「Sider」という前衛的で抽象度の高い作品だった。1時間超の公演が半分も行かないうちに客が次々と立ち上がり帰っていく。しかもこっそり出て行くのではない。わざとドタドタと大きな足音を立てて、イヤミたっぷりなのだ。公演中も客席には明かりが照らされていた。だから、客が出て行くのはよく見えていたはずだ。それでも15人ほどのダンサーたちはなにごともなかったかのように踊り続けている。ガラガラになった客席に取り残された私は動揺し、こう思った。一生懸命頑張っているんだから、最後まで見るのが礼儀なんじゃないのか、と。

 踊り手はいったいどんな気持ちだったのだろう。ザ・フォーサイス・カンパニーの一員としてあの舞台にいたダンサーの島地保武さん(43)に話を聞いてみたくなった。

 客受けが良くなかった作品の…

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