悲劇の翼「A26」空に消えた父、78年ぶりの「再会」

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馬渕俊之 編集委員・永井靖二
【動画】戦中の朝日新聞社機A26・2号機最後の姿=朝日放送テレビ制作
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 78年前、ドイツへ向かう途中に消息を絶った長距離飛行機「A26」。最後に飛び立つ様子をとらえた映像が東京で見つかり、試写のスクリーンに向き合った永田芙美子さん(81)=大阪市旭区=は涙がとまらなかった。そこには、3歳で別れた父の姿があった。

 日中戦争が泥沼化し、日本が戦争一色になっていた1940年。初代神武天皇の即位から2600年とされたこの年は、様々な記念行事が各地で行われた。朝日新聞は当時、本社機による東京―米・ニューヨーク間の無着陸飛行を計画。このために設計された機体がA26だった。

 だが、日米親善をうたった計画は翌41年12月、太平洋戦争が始まると中断。やがて戦況が悪化すると、陸軍の下で機体の製造が再開された。日本の周囲が連合国軍側の勢力圏となるなか、無着陸で長く飛べるA26の性能に陸軍が目をつけたのだ。

 同盟国のドイツとの航路開設をめざし、A26は無着陸でドイツへ向かう任務を与えられた。出発は43年7月7日、搭乗員は陸軍の佐官3人と朝日新聞航空部5人の計8人だった。芙美子さんの父、永田紀芳(きよし)さんも航空部の機関士としてA26に乗り込んだ。

 重量7・2トンの機体に8トンを超える燃料を満載した。シンガポールを飛び立ち、その後、行方不明になった。事故だったのか、撃墜されたのか、機体は今も見つかっていない。

残っていた離陸の映像

 離陸の模様を撮影した映像も…

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