敷地の角で「鬼門」封じ 京都にいまも残る厄除け法とは

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小松万希子

古都ぶら

 不吉な方角を指す「鬼門」は知っていたが、「鬼門封じ」という独特の風習も京都にはあるという。いわゆる「洛中」の伝統なのだろうか。洛外(桂川の西の方)で鬼のような人にも出会わず、ぬくぬくと生まれ育った記者(25)には、いまいちピンとこない。京都市中心部の上京区と中京区を歩いて探してみた。(小松万希子)

シュールな人面皿

 きっかけは、ある発掘調査の取材だった。丸太町駅(京都市中京区)から徒歩数分の現場で出土したのは、絵が入った直径16センチの平皿。いたずら書き風のタッチで、ひげを生やした男性が描かれ、見事に気の抜けた表情だった。

 「シュールな絵だなあ」というのが第一印象。

 発掘をした会社の担当者に聞くと、現場は平安時代中期に摂政・太政大臣を務めた藤原実頼(さねより)の邸宅「小野宮(おののみや)」があったとされる場所だという。

 皿は「人面墨書土器」と呼ばれ、主に川に流して穢(けが)れを払うために使われたとされる。長岡京跡では多く見つかっていて、ひげの男性は疫病神や描いた本人という説があるそうだ。

 今回は発見場所が、ちょっと違った。庭池の端っこ、北東のあたりに直径60センチほどの石が浮島として据えられており、その下に埋まっていたというのだ。

 失敗作として隠したわけじゃあるまいし、何か目的があったのか。祭祀(さいし)に詳しい大東文化大東洋研究所の山下克明研究員に聞くと、「最古の鬼門封じの可能性がある。北東に岩を置くことの災厄を取り除くために入れたのでは」と言う。 

 最古の鬼門封じ?

 鬼門は、古代中国から伝わった陰陽道で「丑寅(うしとら)」(北東)から鬼が出入りするとされたことが始まり。対角の南西も「裏鬼門」として忌む対象だ。調べてみると、11世紀の庭造りの解説書「作庭記(さくていき)」には「大岩を北東に立てると、悪魔が入ってくる足がかりとなる」という記述もあった。山下さんが言っていたのは、これだ。

 妖怪研究で有名な小松和彦・国際日本文化研究センター名誉教授によると、鬼門の考えは平安中期ごろに貴族に広まり、江戸時代にかけて庶民に根付いていった。

 鬼門にバリアーを張るのが鬼門封じ。グーグルで検索したら、「鬼門封じ博士」のような人が見つかった。京都産業大日本文化研究所の特別客員研究員、藤野正弘さん(73)だ。

 藤野さんによると、鬼門封じは、鬼門と裏鬼門に厄よけを置くのが一般的。「難を転ずる」意味を持つナンテンや、鬼がトゲを嫌がるヒイラギを植えたり、角を四角く囲って「清浄」の象徴とされる玉砂利を敷いたりする。冒頭の絵の男性にも、そんな浄化能力があったのか。

 藤野さんは5年前、堀川、寺町、丸太町、五条の各通りに囲まれた区域で、約1100の鬼門封じを見つけた。ナンテン派が最多で約460軒、玉砂利派が320軒、ヒイラギ派が90軒と続いたという。

今も街のあちこちに

 そんなに多いならと、自分で探すことにした。至る所で見つかった。

 府庁前の保生(ほせい)堂薬局には、四角く玉砂利を敷く典型的な鬼門封じがあった。1872年創業。今は6代目の田中秀明さん(46)が店主だ。近隣の病院に通う人の処方箋(せん)や漢方薬の相談など、地域の健康を担ってきた。

 7年ほど前に建て替えた建物には、鬼門へのケアが幾つも見て取れた。北に面した入り口のガラス戸は西に寄せ、鬼門から遠ざけていた。トイレなどの「不浄」も鬼門を避けて南の中央部に。裏鬼門にも玉砂利を敷いている。

 父親で先代の治美(はるよし…

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