8月9日、長崎に原爆が投下されて76年になる。長崎市で開かれる平和祈念式典で、同市の岡信子さん(92)=旧姓・百田=が過去最高齢の被爆者代表として「平和への誓い」を読み上げる。被爆時の凄惨(せいさん)な光景や被爆者に向けられた偏見を、ずっと胸の内にしまってきた。「残された者の務め」と、少しずつ語り出したのはここ数年のことだ。

 被爆当時、16歳の看護学生だった。看護を学んでいた大阪で空襲が激化し、故郷の長崎に戻って2~3日ほど後、自宅内で立ち上がった時だった。光ったり音がしたりした記憶はない。突然吹き飛ばされ、気がつくと倒壊した家の床下にいた。自宅は爆心地から1・8キロ。母と弟に助け上げられたが、爆風で割れたガラスが左腕や左足に突き刺さっていた。手当てもできないまま、翌々日、市内の新興善国民学校に設けられた臨時救護所に動員された。

 岡さんにとって初めての医療現場。着いた時には、重傷者が教室から廊下まであふれていた。薬はなく、やけどした背中全体にわいたウジを手で取った。後ろから男性に腕を引っ張られて「ウジ、ウジ」と言われたが、肉に食い込んだウジは取ろうとしても取れなかった。

 遺体は戸板に乗せ、同僚と2人で運び出した。戸板には遺体からはがれた皮膚や肉がこびりついていた。

 救護の合間、工場に行ったまま行方不明の父を捜しに街へ出た。

満員の車内から浴びせられた「原爆者は降りろ」「化け物」。しゅうとめからもなじられ、隠してきた経験。どうして語るに至ったか、記事の後半と動画でたどります。

 「救護所の中も街も地獄で…

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