死者・行方不明者約800人を出した四日市空襲から18日で76年を迎える。業火のなか、必死の思いで逃げ惑った体験を持つ男性は振り返る。「国民が軍国主義をすり込まれた結果が、あの惨禍につながっていったのではないか」
名古屋市西区の春日一彦さん(87)は1933年、現在の三重県四日市市元新町で寺の副住職だった父の長男として生まれた。空襲があった45年当時は11歳で、国民学校6年生。祖父と両親に4人の姉妹と暮らす8人家族だった。
あの日、いったん出された警戒警報が解かれ、春日さんたちが眠りにつこうとしていると、飛散防止のために半紙を貼った窓ガラスの向こうが、夕焼けのように赤く染まっていくのに気づいた。18日未明、90機近い米軍のB29戦略爆撃機が焼夷(しょうい)弾3万個で街を焼き尽くす、四日市空襲の始まりだった。
町内の防火隊の役員をしていた父と、四日市高等女学校の防火班に入っていた姉の長女は次々と家を飛び出していく。残る6人は海岸を目指し、そろって東へと逃げ始めた。
間もなく、春日さんたちの目の前に「シャー」と轟音(ごうおん)を立てながら焼夷弾が降り注いだ。混乱の中、国民学校4年生だった次女とはぐれた。「仏様、お許しください」。捜す余裕はなく、逃げるしかなかった。
かぶった布団への引火にも気…
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