五輪の是非論、不作為続けるメディア 山腰修三慶大教授

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 「ジャーナリズムの不作為」という言葉がある。メディアが報じるべき重大な事柄を報じないことを意味する。例えば高度経済成長の時代に発生した水俣病問題は当初ほとんど報じられなかった。このような不作為は後に検証され、批判されることになる。

 ジャーナリズムは出来事を伝えるだけでなく、主張や批評も担う。したがって、主張すべきことを主張しない、あるいは議論すべきことを議論しない場合も、当然ながら「ジャーナリズムの不作為」に該当する。念頭にあるのは言うまでもなく、東京五輪の開催の是非をめぐる議論である。

 4月の朝日や共同通信の世論調査では延期や中止が7割前後と多数を占めた。ソーシャルメディアでは怒りや反感が渦巻き、看護師の派遣に反対するハッシュタグが拡散した。28日には政府の対策分科会の尾身茂会長が開催を「議論すべき時期」と発言した。

 この段階に至るまで、主流メディアは「中止」も含めた開かれた議論を展開したとは言い難い。例えば、5月13日現在、朝日は社説で「開催すべし」とも「中止(返上)すべし」とも明言していない。組織委員会前会長の女性差別発言以降、批判のトーンを強めている。しかし、それは政府や主催者の「開催ありき」の姿勢や説明不足への批判であり、社説から朝日の立場が明確に見えてこない。内部で議論があるとは思うが、まずは自らの立場を示さなければ社会的な議論の活性化は促せないだろう。

 「中止」を主張する識者の意見や投書、コラムを載せ、海外メディアの反応も伝えている、という反論もあるかもしれない。だが、それでは社説とは何のために存在するのだろうか。

 かつて6年近く朝日の論説主幹を担った若宮啓文は、社説を「世論の陣地取り」と位置づけた。社の考えや価値観の理解・支持を広げていく手段、というわけである。こうした点からすると、五輪をめぐる朝日の社説は「陣地取り」に完全に失敗している。

 そもそも主流メディアは、五輪について矛盾したメッセージを発信してきた。コロナ対策としてさらなる自粛を呼びかける一方で、聖火リレーなどを「皆で盛り上げるべきもの」として伝える。社説で開催の是非を明言すると、この矛盾についても説明責任を果たす必要が出てくる。何らかの政治的決断が下される時まで明言を先送りすれば、自然と矛盾は解消されるかもしれない。しかし、それは自らの言論で現状を打開する意志を放棄した「既成事実への屈伏」にほかならない。むしろ、聖火リレーが強行されてなお何も主張しなかった段階で、「既成事実への屈伏」は始まっている。

 大会の延期や中止を求める世…

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