第8回「最低でも県外」発言と迷走 岡田克也元外相が感じた壁

有料記事証言 動かぬ25年 普天間返還合意

聞き手=河口健太郎
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 米軍普天間飛行場沖縄県宜野湾市)の返還合意から14年目の夏。民主党の鳩山由紀夫代表が発した「最低でも県外」の言葉をきっかけに、移設計画が問い直されることになりました。迷走、そして、現行案への回帰。岡田克也元外相(67)が感じた「壁」とは、何だったのでしょうか。

 ――25年もの間、返還が実現しない要因をどう考えますか。

 「普天間は危険であり、移設の必要性は多くの人が確認していますが、どこに移設するのかについての合意形成ができていない。沖縄の人を納得させるだけのものが提示できていない。辺野古移設で合意ができた時期はありましたが、本当に沖縄が納得していたのか、かなり疑問です」

 ――2009年の政権交代を控え、民主党の鳩山代表が「最低でも県外」と打ち出しました。

 「衆院選の直前、それも沖縄での発言でした。当時、幹事長だった私は『何で言うんだ』と頭を抱えました。衆院選のマニフェストにはあえて『普天間』を書かなかったが、代表が発言したことは重いですよね」

 ――岡田代表時代の05年の民主党沖縄ビジョン改訂版でも「県外移転」や「国外移転」に触れています。当時から「県外・国外」という考え方はあったようですが。

 「ビジョンを議論していた現場は『国外』と入れたいと報告してきました。それでは『米軍は日本から出て行け』というメッセージになる。政権をめざす政党として、米軍を敵視するような政策を取るのは、無責任ではないかと思いました。一方で、沖縄に普天間、嘉手納の二つの大きな基地があり、負担が重すぎることは事実なので、『県外』を加えてくれ、とお願いしました。具体的に目算があったわけではないですが、無責任に『国外』と言わない、ということであれば、日本の中で移設先を探すということしかなかったと思います」

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なぜ、普天間は動かないのか。これからどこへ向かうのか。米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の電撃的な返還合意から25年。節目の今年、ワシントン、東京、沖縄にいる朝日新聞記者たちが、日米沖の政治家や官僚、識者や普天間周辺で暮らす人たちに取材しました。

 ――09年のマニフェストで県外・国外移設に触れなかったのは、なぜですか。

 「党内で議論したうえで判断しました。政権交代目前ですから、できない恐れがあることは書かないようにしよう、幅を持たせよう、と。ちょうどそのころ、米国の専門家たちから『日米で様々な課題があることはわかるが、いきなり全部並べると難しくなる。幅を持って、一つひとつ片付ける発想でやってもらいたい』とアドバイスされました。なるほどと思い、政権に就いてから外務省などの意見も聞きながら優先順位を付けていこう、と。マニフェストには『普天間』という言葉は意識して入れませんでした」

岡田 克也

おかだ・かつや 1953年、三重県生まれ。90年に衆院初当選。当選10回。民主党や民進党で代表など主要ポストを歴任した。外相時代は、外交文書の公開を推進。野田内閣の副総理として、消費増税実現の調整に当たった。現在は立憲民主党の常任顧問。

 ――ですが、鳩山さんの発言で、「最低でも県外」は民主党政権の事実上の公約となりました。

 「衆院選後、幹事長として、社民党国民新党との連立交渉を担当しました。普天間は相当もめたが、粘ってマニフェストの線に合わせて連立合意にも書きませんでした。でも、鳩山総理が『あのきれいな海が』とか、どんどん踏み込んじゃうんですよ。沖縄に大きな基地は二つもいらない、という思いはそれだけ強かったんでしょうね。防衛相北沢俊美さんと『鳩山総理に代わりはいないが、大臣はいくらでも代わりがいる。だめだったら我々が辞めたらいいんだから、任せてくれ』と訴えたけど、ほとんど効き目はなかったです」

 ――自身としては、早い時期に県外への移設は無理だと思ったのですか。

 「沖縄本島北部にある海兵隊

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