「敵の子」育てた中国の養父母 子供が日本に帰った後は

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長春=平井良和
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 中国吉林省残留日本人孤児を育てた中国の養父母らの専用住宅「中日友好楼」がある。30年前に日本人の寄付で建てられた。昨秋、そこで暮らしていた最後の養母が亡くなった。日中関係が揺れ動く中、民間同士の変わらぬ絆を記憶する場所として存続が期待されている。(長春=平井良和)

帰国者の寄付で建った

 長春市中心部の3階建て36戸のアパート。一見、周囲の建物と同じに見えるが、近づけば壁に「中日友好楼」の銘板が見える。2年前までは屋上に大きな看板が掲げられていたが、老朽化で取り外された。楼長で養父母の娘の劉春明さん(68)は「建ててくれた日本人への感謝を示そうと住民で付けた看板だった。当時は養父母もみんなまだ若かった」と目を細める。

 日本の傀儡(かいらい)国家の旧満州国(1932~45年)があった中国東北部には、終戦時の混乱で親と離れた日本人孤児が残された。80年代から帰国事業が本格化し、2557人が帰国した。一方、孤児らを引き取って育てた養父母らは5千人以上とみられるが、まとまって公開された記録はない。孤児の帰国後、高齢の夫婦だけで生活が困窮した人もいた。

 そんな養父母を支える友好楼ができたのは1990年。旧満州からの引き揚げ者だった東京の男性が「孤児らを育ててくれた養父母への感謝を示したい」と長春市に建設費を寄付した。養父母は少額の管理費を収めるだけでよく、多い時には29世帯が入居。養母らが軒先で井戸端会議をする風景が日常となった。

 住民の鄭向陽さん(62)は「ここは養父母が互いの心を慰め合える場所だった」と話す。養父母の多くは「敵国の子を育てた」との批判にさらされた経験がある。そして、育てた子を遠く離れた日本へ送り出した寂しさも抱えた。鄭さんは「胸のうちを話し合え、きっと誰も孤独ではなかったでしょう」と言う。日本へ戻った誰かの子が「里帰り」すると、みんな我が子のように出迎えたという。

最後の1人が亡くなって

 時の流れとともに養父母は少なくなり、昨年10月末に98歳で亡くなった鄭さんの実母、崔志栄さんが最後の1人となった。

 崔さんは亡くなる前の9月…

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