第5回普天間25年、ボタン掛け違いの連続 山崎拓氏の警鐘

有料記事証言 動かぬ25年 普天間返還合意

聞き手=編集委員・藤田直央 松山尚幹
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 米軍普天間飛行場沖縄県宜野湾市)の移設問題には、自民党の多くの有力者が関わってきました。その一人が山崎拓・元副総裁(84)。2000年代には小泉内閣首相補佐官として、米国や沖縄の関係者とも向き合いました。交渉の内幕や混迷を深める現状をどう見るかを聞きました。

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なぜ、普天間は動かないのか。これからどこへ向かうのか。米軍普天間飛行場(沖縄県宜野湾市)の電撃的な返還合意から25年。節目の今年、ワシントン、東京、沖縄にいる朝日新聞記者たちが、日米沖の政治家や官僚、識者や普天間周辺で暮らす人たちに取材しました。

 ――普天間飛行場の返還や移設先を「沖縄本島の東海岸沖の海上施設」とした合意を米政府と行った橋本政権では、自民党政調会長でした。当初から沖縄県内に移設する方針だったわけですが、県民は歓迎すると考えましたか。

 「概括的にはそうです。日米合意は5~7年以内の全面返還をうたっていましたから。04年に起こった普天間飛行場近くの沖縄国際大学への米軍ヘリ墜落事故でもわかるように、人口密集地にある飛行場の危険性は明らかで、その返還の有用性は当時から認識されていました。移転先をどうするかは、付随的な問題と捉えていました」

 「1998年に当選した稲嶺恵一知事は、移設先を『名護市辺野古』と表明。軍民共用で米軍の使用期限15年という条件付きながら移設を認めていた。今日のような県全体の反対運動につながるとは思ってもいませんでした」

山崎拓(やまさき・たく)

1936年生まれ。福岡県出身、早大卒。2009年まで衆院議員を12期務めた。防衛庁長官や建設相のほか、自民党の政調会長や幹事長、副総裁を歴任した。小泉元首相、故加藤紘一元幹事長とは盟友関係にあり、「YKK」と呼ばれた。

 ――96年の日米特別行動委員会(SACO)合意の前後に、米政府の担当者とは協議しましたか。

 「キャンベル国防次官補代理(バイデン政権ではホワイトハウスのアジア政策責任者)とよく話しました。来日すると米国大使館そばのホテルから毎朝、皇居の周りをランニングシャツでジョギングして、エネルギッシュでしたね。私と話すときも迫力がありました」

 「キャンベル氏は在日米軍基地のうち、海軍第7艦隊の母港である横須賀基地と沖縄にある空軍の嘉手納基地海兵隊の普天間飛行場はすごく大事だ、と。『普天間を返すなら代替基地が必要だ』と極めて当然のように話していました」

 ――96年には日米安全保障共同宣言も出ます。冷戦後もアジア太平洋に米軍が存在し続けることが不可欠だ、と。普天間飛行場の「県内移設」は宣言をふまえ、日本、沖縄の米軍基地を維持する姿勢の表れだったのではないですか。

記事の後半では、小泉内閣で検討された新たな移設案の内幕を聞きました。

 「そうですね。日米安保条約

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