「口先だけはまだ動く」寝たきりの私がスポーツする意味
「車椅子を押してもらいながら何かをすることで、お前の中で意味は生まれるのか?」
高校2年の春。大好きな電動車椅子サッカーをやめて気落ちしていた私は、先生の問いに返す言葉がなかった。もう一度、電動車椅子サッカーに復帰したくなり、どうしたら電動車椅子を操作できるのかを考えた。
病気の進行で今までのように右手でコントローラーを操作することはできない。かと言って、左手は右手以上に機能しておらず、正直、サッカー復帰は絶望的だった。
それでも、先生にもう一度サッカーをやっている姿を見せたくて、私は知恵を絞りながら日々の生活を送っていた。
「塗り絵」で気づいた可能性
そんなある日、特別支援学校の「自立活動」という授業の中で、私は大好きな「ドラゴンボール」の塗り絵をしていた。なぜ、塗り絵なのかというと、それはリハビリのためだ。
当時の私は電動車椅子の操作はできなくなったものの、まだ何とか鉛筆やペンで文字を書くことができた。椅子に座って書くことはできなくなっていたので、横になって右手でペンを持ち、ペンの根本を口に加えながら、唇のわずかな動きで塗り絵をしていた。
すると、あるクラスメートが私に「口でよくそんな器用に書けるな」と言ってきた。私は、「口先だけはまだ動くからな」と冗談交じりの口調で答えた。
その瞬間、急に、ピンときた。
(口でなら、電動車椅子を操作できるかもしれない……)
それから私は母に頼んで、車椅子の業者に会わせてもらった。私が車椅子の業者に「口で電動車椅子を操作したい」と言うと、母も業者もとても驚いている様子だった。
業者からは「口で操作なんて出来るわけがない。そんな人これまで見たことないですよ」と言われたが、いつになく食い下がる私の姿を見て、母が「この子ができると言うならできると思うんです」と言ってくれた。
口先でコントローラーを動かす
そして数カ月後、車椅子の業者から口元に小型のコントローラーを設置した電動車椅子が届いた。ラジコンのジョイスティックのようなコントローラーを顔の前に配置する。そして、長さ2~3センチの小さな突起を下唇の下にあてて、唇のわずかな動きで操作する。
私は、緊張感漂う空気の中、試しに運転してみた。業者も母も内心、本当に操作できるとは思っていなかったようだが、結果は最高の形だった。
操作は右手でしていた頃よりも快適で、運転の練習もほとんどせずにイメージ通りに動くことができた。私はうれしさをこらえきれず、その場で車椅子ごとくるくると回ってしまった。高校生とは思えないはしゃぎようだったと思う。学校では電動車椅子生活に戻り、自由に動き回れるようになった。うれしくて、友だちに見せて回るほどだった。
もちろんサッカーも再開した。しばらく学校の体育館で自主練をした後、名古屋のクラブチームに復帰した。高校3年の秋には、チームメートと全国大会に出場することもできた。
そのことを報告すると、先生はぶっきらぼうな口調で「そうか」と言った。そして続けて「また、調子に乗ったプレーをして周りに迷惑かけとらんか?」と言ってきたので、私は「先生、何言ってんの。今では僕もスタメンなんですから」と鼻高々に答えた。
すると先生は、「やっぱりお前は、中学の頃から変わらないな」と言って、少しあきれたように、でもどことなくうれしそうな表情をしていた。
それから数年間、私は体力が持つ限り、電動車椅子サッカーを続けた。人生で、これほど熱中したものは初めてだった。そして障害者スポーツのことをもっと多くの人に知ってほしいという思いから、電動車椅子サッカーのことを自身のブログやSNSで発信した。
障害者スポーツは「ただの道楽」?
多くの方から応援のコメントやメッセージをもらったが、中には「障害者のスポーツって結局のところ、ただの道楽ですよね」というメッセージも届いた。もちろん、こういった内容はショックだったが、そういうときは、「是非いつか、実際に障害者スポーツを見に行ってください」と答えるようにしていた。
でも、どうだろう。若いころに熱中したスポーツを、一生続ける人はそれほど多くはないはずだ。それでも、やってよかったと思う人が多いのは、純粋に楽しいからだったり、その後の人生の糧になる何かに出会えたりするからではないだろうか。
それは、健常者のスポーツも障害者のスポーツも同じじゃないかと思う。それでもなお、ただの道楽と呼ばれるなら、それは仕方がないことだと思うけれど。
結局私は、20代前半に体力や仕事の都合でサッカーを辞めることになった。それでも、先生の「ごちゃごちゃ言うな」という一言がきっかけで、高校時代からもう一度、サッカーに復帰できたことには心から感謝をしている。
何より、諦めかけたときの踏ん張る力はサッカーから学び、そのマインドは今の仕事にもつながっている。
近年では私自身が障害者スポーツをすることはあまりないが、地元・愛知県東海市で東京パラリンピックの正式種目でもある「ボッチャ」というスポーツ大会を催したりしている。ボッチャ自体は私にゆかりのあるスポーツではないが、高校時代の体育の先生から「障害を持つ子どもたちが出場できる大会が少なくて困っている」という相談を受け、東海市の協力を得て大会を企画した。大会名は「東海市ふるさと大使 佐藤仙務杯」だ。
スポーツの場広げたい
まだまだ本当の意味で障害者スポーツの理解は得られていないかもしれない。でも、私は少しでも障害者スポーツの場を広めていく手伝いをしていきたいし、できれば、パラリンピックのような一時的なものでない形で世に浸透させていきたいと考えている。
それこそ、僕にサッカーを教えてくれた先生のように。

- 佐藤仙務(さとう・ひさむ)
- 1991年愛知県生まれ。ウェブ制作会社「仙拓」社長。生まれつき難病の脊髄性筋萎縮症で体の自由が利かない。特別支援学校高等部を卒業した後、19歳で仙拓を設立。講演や執筆などにも注力。著書に「寝たきりだけど社長やってます ―十九歳で社長になった重度障がい者の物語―」(彩図社)など。ユーチューブチャンネル「ひさむちゃん寝る」では動画配信も手がける。