レンズ越しに鬼気迫る羽生 震災1年後「伝説」のニース

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遠藤啓生

 東日本大震災から10年を迎えた今年、フィギュアスケートの世界選手権が3月24日からストックホルムで開かれる。来年の北京冬季五輪の出場枠をかけ、日本からは羽生結弦選手らが出場予定だ。仙台出身の羽生選手は厳しい環境で練習を重ねながらも「被災地に光を」との思いを胸に、この10年で世界の頂点に駆け上がった。リンクと被災地。映像報道記者(40)は二つの現場を行き来しながら、羽生選手の思いをレンズ越しに見つめてきた。

 2012年、フランス・ニースで開かれた世界選手権は、羽生選手が頂点をつかむ足がかりになった、と語り継がれる大会だ。ショートプログラム(SP)7位からの大逆転劇(銅メダル獲得)を演じ、ファンの間では「伝説の大会」とも呼ばれている。準優勝の高橋大輔選手と表彰台に上がり、あどけない笑顔を見せる17歳当時の羽生選手。観客席では、震災からの復興を願う「絆」の文字が書かれた日の丸が揺れていた。

県外に出て重ねた練習 世界選手権の切符

 ちょうどその1年前、筆者は震災発生直後の岩手県陸前高田市にいた。津波に押し流され、背丈の何倍もの高さに積もったがれき。目の前では、孫を捜しに大船渡市から来た女性が自宅前で立ち尽くしていた。声をかけるので精いっぱいで、しばらくレンズを向けることができなかった。記者5年目。どうしようもない無力感に押しつぶされそうだった。以来、未曽有の大災害にどう向き合うか自問自答を繰り返しながら、毎月のように東北と東京を行き来した。

 当時高校生だった羽生選手は、宮城県外のリンクやアイスショーで練習を重ねていた。秋にはグランプリ(GP)ロシア杯で初優勝。GPファイナル初出場を決めたニュースは、出張先の仙台で知った。

 翌12年の元旦は、宮城県南三陸町で迎えた。取材を終えて帰京すると、世界選手権ニース大会への派遣を打診された。正直、頭の切り替えが難しかった。自分が追い続けるべきテーマは被災地にあると感じていた。

 その年の3月11日、震災から1年を迎えた同県名取市の閖上(ゆりあげ)中学校の校庭には、ろうそくの灯で「絆」が浮き上がった。まわりの田んぼには、津波で打ち上げられた漁船がそのまま残っていた。

会心の演技後、羽生選手が語った被災地への思い

 3月下旬、南仏・ニースの空港から乗ったタクシー。運転手に日本から来たこと告げると、東日本大震災について細かく尋ねられた。夕日で黄金色に輝く地中海を眺めながら、まだ割り切れないでいた。自分はここにいていいのだろうか――。

 大会は、日本ペアが初めて世界選手権でメダルを獲得するなど大いに盛り上がった。そして迎えた「伝説」の男子フリー。

 羽生選手は「ロミオとジュリ…

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