怒りぶつけられ、訪問拒まれ 同郷だからわかった悔しさ

大谷百合絵
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 やっぱり海のそばに行きたかった。心の穴をうめるように、日立の海で毎日サーフィンばかりしていた。

 八橋(やつはし)誠さん(41)は福島県浪江町で被災した。妻も1歳の娘も無事だったが、余震がやまず一睡もできなかった。翌朝、近所に住む東京電力の社員から「原発が危ない」と聞き、その日のうちに約20人の親戚と会津若松市に避難した。

 前日から着ていた仕事着のまま出てきたが、自宅は強制避難の対象地域に指定された。

 泳いだり、波に乗ったり。幼い頃から暮らしの一部だった海は会津にはなく、冬は大雪とどんより暗い空に気分が沈んだ。ふるさととは全く違った。

 震災翌年の11月、仕事で何度か訪れたことのある茨城県日立市に家族で引っ越した。

 浪江では、原発などの整備を請け負う会社で管理職をしていた。ものづくりの仕事は好きで、ずっと続けるつもりだった。

 「たった1日で人生の設計図が狂った」。日立に行っても無気力感はぬぐえず、職につけなかった。

「浪江のなまりで話したい」

 1年が経つころ、浪江町が避難者のケアなどを行う「復興支援員」を茨城で募集していると知り、申し込んだ。「さみしい」「浪江のなまりで話したい」という町民たちの声が気にかかっていた。月額の収入は震災前の3分の1だったが、ありがたいと感じた。

 避難者を戸別訪問する中で、やり場のない怒りもぶつけられた。

 水戸に住む中年男性の怒りの言葉は、1時間以上正座して聞き続けた。家が残った人は住宅に対して東電の賠償が支払われたが、津波で流された男性の家は対象から外れた。

 何も言えなかった。けれど男性は一通り話すと「悪かったなあ、また来てくれよ」と言った。八橋さんは「それでいい。気持ちを楽にすることも一つの支援だから」と受け止めた。

 県央に住む中年男性のもとには60回ほど通った。家の雨戸はだいたい閉まっており、気分の浮き沈みが大きく、話すことができたのは7回ほどだった。玄関先で小一時間、せきを切ったようにあふれる浪江の思い出話を聞いた。

 男性は浪江で、部品メーカーに勤めていた。避難先で建設業の仕事についたが、作業現場で骨折してからは無職だった。近所や実家との関係も良好ではなく、支援員が唯一の話し相手だった。

他に誰がしてくれますか?

 復興とはなんだろうか――。ふと考える。

 日立に移住して9年になるが、「仲が良い」と思える友人はまだいない。避難した会津で、地元の人が「避難者はみんな賠償金をもらっている」と話すのを聞いてから、「どこから来たの?」と聞かれると、浪江には触れず「福島の山の方」と答えている。

 福島県外で活動する浪江町の復興支援員は、現在7人。14年の30人をピークに縮小傾向にある。新年度からはさらに減らし、福島県内で活動する支援員を増やすことを検討している。八橋さんは今月いっぱいで職を離れる。

 「自分にとっての復興は、安定した仕事に就くこと」。一方、「俺たちは捨てられたんだな」と言う避難者の顔が浮かぶ。

 「『あそこのラーメン屋、浪江の店の味に似てるよ』なんて声がけ、支援員以外誰がしてくれますか? 今も避難先に溶け込めない人はいるのに。現場を見ればわかる。まだ寄り添いの支援は必要です」(大谷百合絵)

     ◇

 〈復興支援員〉 被災者の見守りやコミュニティーづくりなどを担う。支援員の報酬や活動費の財源は特別交付税。1年ごとの契約更新とする自治体が多い。

 2019年度は福島、岩手、宮城の3県と23市町村に委託された計291人が活動した。15年度の492人以降、減り続けている。

 浪江町は12年8月から支援員の配置を始めた。福島県外の拠点数のピークは14~15年で、首都圏に加え福岡や京都など1府9県に置かれた。現在は茨城、千葉、埼玉の3拠点で、計7人が活動している。

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